徒然草子 -6ページ目

徒然草子

様々なテーマに関する雑感を気ままに綴ったブログです。

以下は簡単な極めて私的な雑感である。
集団的自衛権の問題に関して、相変わらず、左派系マスコミを中心にかまびすしく騒いでいる。
この件に関しては、本来的には憲法改正という手順を踏む方が理想的ではあるが、同手順を進めようとすると、恐らく、彼等は全力でそれを阻止するキャンペーンを行うであろう。
彼等の主張の根拠は空想的平和主義とでも言うべきもので、多分に情緒的であり、ただただ、只管、感情に訴える事と極端な仮定のみで成り立っているとしか言い様が無い。
昨今、電気料金が上昇しているが、現在、電力資源を輸入化石燃料に大幅に依存している以上は避けられない事は初級程度の経済学の知識があれば、容易に推察できる事であるし、産油国エリアの今日の地政学的リスクを踏まえれば、今後も上昇する可能性は大いにあるであろう。上記の空想的平和主義者と恐らくは同根と見込まれる反原発運動家達は、上述の通り、恐らくは科学的思考力を欠如しているか、若しくは感情論的に回避している様に見込まれるから、冷厳な経済的メカニズムに関して理解力に乏しいか、若しくは見えない振りをしているのであろう。
又、彼らはこれらの運動に本気に信じて取り組んでいるのかどうかは知らないが、今度は国際関係に置き換えて冷静に客観的に見れば、単なる利敵運動行為にしか映らないものである。

先日、安土城跡を訪れたが、その際に摠見寺も併せて拝観した。
織田信長は安土山に安土城を築城した際にその城内に摠見寺を建立したが、その伽藍の規模は城内域において、通常、見られる持仏堂のレベルを超えて本格的な寺院であった。
現在、摠見寺は臨済宗妙心寺派の禅刹だが、建立当初は無宗派であった様で、その本堂の建築様式は、発掘調査によると、密教形式のもので、近くに鎮守社も備わり、又、初代の住持は東海地方の牛頭天王信仰の中心地であった津島牛頭天王社の社僧堯照法印(真言僧)であったと言う。
さて、本能寺の変に際して織田信長が亡くなると、間も無く、安土城も出火し、天守閣などが焼失したが(※出火理由については諸説がある。)、摠見寺の方は殆ど無傷であったと言い、又、寺の住持職の方は織田一門出身の禅僧である正仲剛可(円鑑禅師)が豊臣秀吉の任命を受けて堯照の後を継承して以降、織田一門の者が選任される伝統の素地ができたと言われている。尤も住持職に関して、正仲剛可の後を継いだ玉甫が亡くなると、しばらくの間、不在の期間が続いた様だが、織田一門の出である京都の龍安寺の雪庭寿珪が同寺の住持となって以降、臨済宗妙心寺派に属する様になった。
一方、安土城の方は天守閣等の焼失以降も織田氏の居城としての機能を果たしていたが、1585年に豊臣秀次の近江八幡城の築城とともに廃城になったと言い、安土城の城郭としての歴史は僅か10年弱を以て終えた。
摠見寺に関しては、上述の通り、安土城無き後も存続し、1623年の幕府の裁決以降、江戸時代を通じて織田一門の者が同寺の住持となった。しかしながら、幕末期の1854年の出火により摠見寺の伽藍は、今日、現存する仁王門と三重塔を残して焼失。その後、旧伽藍から離れた伝徳川家康邸跡地にて仮本堂などを建立し、今日に至っている。
かかる仮本堂の建っている敷地は、今日、安土城跡の南正面入口から山頂部の天守閣跡へと続く大手道に面している。そして、敷地に入り、少しばかり歩くと、仮本堂へと続く石段が左手に見えてくる。
尚、仮本堂はその名称に仮という語を冠しているとは言え、建物自体は宮内省より1929年に京都御所の殿舎の一部を譲渡されたものと言われているだけあって、それ相応の佇まいが感じられ、本堂と称するよりは方丈と称する方が相応しい様に思われる。方丈が本堂の機能を担う事は臨済宗系の禅刹では決して珍しい事では無いが、仮本堂と称する所からすれば、何時の日か本堂を再建させたいという意思があるのであろうか。
さて、玄関に入ると、先ずはその正面に像主不明の大きな木像が眼に入る。そして、その左手に置かれている小振りな厨子には大黒天が、又、右手奥の龕には禅刹でよく見かける合掌する韋駄天が安置されていた。
そして、拝観順路の方は玄関を入って上がり、左手の入口から建物内を一周する様になっている。
入口から最初の部屋には赤沢嘉則氏の襖絵「老櫻図」や現在、その所在が不明の蛇石の上に立つ織田信長の画像が飾られている。
続いて仏間があり、仏間の前の廊下部分には羅漢を描いた屏風が立てられている。仏間の正面には本尊として十一面観音像が安置され、その左手に束帯姿の織田信長像が、右手には摠見寺の開山とされている正仲剛可(円鑑禅師)の像が安置されている。室町時代作の十一面観音像を除けば、いずれも江戸時代の作であり、彩色の方もよく残っている。特に織田信長像の方は、調査の結果、その像内に舎利が安置されていると言うから、嘗ては織田一門が歴代の住持を務めてきた同寺にとって同像は特別な意義を有していた事を推察する事ができる。
仏間を後にすると、茶室に赴き、其処で庭を見ながら、茶菓子をいただくことになる。この日、茶菓子を用意してくれたのはとても人あたりの良い婦人で、茶菓子を差し出された後、会釈を交えた少しばかりの言葉のやりとりを終えて、「どうぞごゆっくりして下さい。」と微笑みながら、建物の奥へと姿を消した。
上述の様な同寺の婦人の気持ちの良い応対を受けて、以前に記事にも書いた事があるが、ふと奈良の庭園で有名な某寺の事が想い出され、両寺における婦人の応対の有様があまりにも対照的である事に思いあぐねた。茶菓子をいただき、束の間のまったり感を味わった後、婦人に礼を述べると、再び拝観順路に戻った。
仮本堂の裏手二部屋には山本燈舟氏の安土城や摠見寺を題材にした水墨画の襖絵や西村恵信氏の「十牛図」が貼られた襖とかがあり、これら二部屋の前には廊下を挟んで庭園が広がっている。その庭園では腕組みをした陶器製の蛙の置物が眼についたが、そのユーモラスな表情が印象的であった。
拝観順路を一巡後、再び玄関へと戻り、仮本堂を後にして大手道に出で天守閣跡を目指した。そして、大手道を登っている際に仮本堂の方を見遣った時にその敷地内における鐘楼や小さな二宮金次郎像の存在に気付いたが、その際に二宮金次郎像の由来について少しばかり気になった。
さて、天守閣跡へと至る石段の所々に石材として用いられた石仏があり、それらには「石仏」と書かれたプレートが設けられており、その傍らにはこの石段を登って行った人達が置いたのであろうか、それぞれに幾つかの小銭が浄財として置かれていた。そして、これらの石仏の他にも、やはり、石材として用いられた室町時代の仏足石もその道中にあったが、仏足石にも石仏と同様に小銭が幾つか置かれていた。

天守閣跡に至る道の途中にある伝二の丸跡やその近くの伝長谷川秀一邸跡には織田信長公本廟や織田信雄四代供養塔がある。
織田信長公本廟は遺体が発見されなかった織田信長の幾つかある墓廟の一つで、基盤となる石壇の上に更に立方体風に組まれた石壇があり、その上に丸い石が置かれている。この廟には豊臣秀吉の手により織田信長の武具や衣装類などの遺品が納められたと伝えられているが、既に多くの人達も気になっていた事だが、この墓廟の他に例の無さそうな奇妙な形態が、やはり、とても気になった。しかしながら、現時点ではこの点について説明している資料の存在を知らない。
又、近くの伝長谷川秀一邸跡には信長の子である織田信雄四代供養塔があり、こちらは普通の五輪塔である。一説によれば、織田信雄は安土城の天守閣焼失の原因を作った人物とも言われているが、仮に彼が天守閣焼失の真犯人であるとすれば、彼の供養塔の存在は、飽く迄、現代的視点による偏見に過ぎないのかも知れないが、極めて皮肉めいたものに感じられる。
さて、安土城の天守閣については既に多くの人達が述べている所なので、敢えて愚見を付け加える事は無い。ただ、安土城の天守閣の特徴の一つとして挙げられるものとしてその居住性の高さがあり、通常、城主は本丸などに居住していた所、織田信長の場合、天守閣を自身の居住地としていた様である。その所以はよく分からないが、京都の極めて近い場所に拠点を置き、かつその勢いからして天下人の最有力候補に位置していた織田信長の強い自負心い裏打ちされたものであろうか。天守閣跡の高台から琵琶湖方面を眺めながら、ふと考えてみたものである。
天守閣跡を後にすると、安土山を下り、摠見寺の旧伽藍方面へと向かう。旧伽藍には本堂跡地や三重塔、仁王門があるが、本堂跡地からの眺望は涼しげな風が流れていた所以もあってか、実に気持ちが良かった。

又、本堂跡のすぐ近くには上述の通り三重塔があるが、この三重塔は、元来、甲賀の天台寺院である長寿寺のものを移築したものと言う。摠見寺の伽藍はかかる三重塔の他に近隣寺院の建物を移築したものがその他にもあった様だが、上述の火災により、今日ではそれらの様相は想像によって偲ぶしかない。
以上、摠見寺拝観、及び安土城跡来訪に関する個人的な備忘録であるが、その日、時間の都合により、安土考古博物館などの周辺施設に行く事ができなかったのが、心残りである。その辺りに関しては、折を見て、改めて訪れてみたいと考えている。
1・序
以下は、飽く迄、備忘録の様なものである。

2.記紀における記事
天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)は素性がよく分からない神である。
『古事記』本文によると、天地が開けて高天原が形成された時に最初に登場した神が天之御中主神と言う。続いて、高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)、神産巣日神(カミムスヒノカミ)が登場したが、これら三神は対の存在がいない独神(ヒトリガミ)であり、やがて隠れてしまったと言う。
一方、『日本書紀』ではこの神は本文の方には登場しない。唯一、一書(第四)にのみ登場し、それによると、天地が分かれた時に国常立尊(クニノトコタチノミコト)、国狭槌尊(クニノサツチノミコト)が共に登場したと言い、又、高天原には天御中主尊(アメノミナカヌシノミコト)がいたと言う。
記紀における記述と言えば、これだけであり、後は『古事記』の序文に天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神を指して「三神造化の首(ハジメ)」と述べられているに留まる。
かかる天之御中主神は、通説的には中国の道教思想、若しくは天帝の概念に学んで導入された極めて観念的な根源神と考えられており、事実、『延喜式』などの古代の神社祭祀の記録において登場する事は無い。しかしながら、根源的ではあるが、観念的かつ実体が無い天之御中主神は実体が無いが故に、逆に後世の人々の様々な想像力を掻き立ててきた。

3.習合神道、伊勢神道における再発見
第一次天之御中主神ルネサンスとも言うべき現象は、先ずは、中世の鎌倉時代において起こった。
先ず、葛城修験系の神道書と目されている『大和葛城宝山記』は仏典の『雑譬喩経』所収のヒンドゥー神話と天之御中主神を次の様に結び付けて以下の神話を展開する。
世界の始まりにおいて十方から風が吹き、大水を湛えていた。やがて、その水に千面二千臂の神が生じたが、その名を常住慈悲神王と言い、違細(ヴィシュヌ)と言う。それから、その神の臍から千葉金色の蓮華が生じ、その蓮華上に光り輝く神が座していた。この神を梵天王(ブラフマー)と言う。『大和葛城宝山記』によると、この梵天王こそが天之御中主神であり、この神はその心から八子を生み、八子がこの世界を創造したと言う。そして、かかる梵天王は地上世界においては三身即一の宝鏡として伊勢神宮の外宮において祀られているのであり、それ故、梵天王は地上世界においては豊受大神であると言う。
上記の書は習合神道系のものであるが、同書では外宮の主祭神豊受大神と天之御中主神が同一視されている。同一視した理由は不明だが、行基菩薩に仮託された同書を伊勢神宮の外宮の神道家達は注目し、彼等の神道理論である伊勢神道の重要な参考書とした。事実、『大和葛城宝山記』を度会行忠は「最極書」の一つとして極めて高く評価している(『古老口実伝』)。
さて、広く知られている様に伊勢神宮の外宮系の神道理論である伊勢神道は外宮の主祭神である豊受大神の地位を内宮の主祭神である天照大神よりも引き上げる事に力を注いだ。その為には豊受大神を従来の穀物霊、食物神としての性格を脱却させ、天照大神以前の世界の根源神に同一化させる事が必要だった訳であり、其処で改めて注目されたのが、実体無き観念神である天之御中主神であった。恐らくは、先の『大和葛城宝山記』を重要なヒントとして伊勢神道の根本テクストである神道五部書の一つ『御鎮座伝記』において天之御中主神は次の様に述べられている。
原初、大海において葦芽の様なものが出現した。やがて、其処に神が現れ、天之御中主神と名乗った。それ故、その地を豊葦原中国(トヨアシハラノナカツクニ)と称し、又、この神を豊受大神とも称すると言う。
又、同じく神道五部書の一つである『倭姫命世記』において崇神天皇の39年の時、天照大神が丹波の吉佐宮において滞在していた時、天より豊受大神が天降り、御饌を奉ったという記事があるが、同書ではかかる豊受大神を天之御中主神の霊を指していると述べている。
さて、上述の伊勢神道は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて栄えていたが、伊勢神道を担っていた度会家は南朝側に与していた関係もあり、度会氏の衰退とともに伊勢神道も勢いを失い、室町時代には吉田神道が代わって台頭してきたが、吉田神道の場合、『日本書紀』本文に登場する国常立尊(クニトコタチノミコト)の方を重視していたから、天之御中主神は再び等閑視されるに至った。

3.江戸時代における再発見
江戸時代中期以前、日本神話の研究において最も重視されてきたのは『日本書紀』であり、『古事記』の方は副次的な地位に甘んじてきた。その所以の一つとして『古事記』とは異なり、『日本書紀』が勅撰の史書であり、かつその当時、古典的標準として考えられてきた中国の編年体の史書のスタイルを採っていた事が考えられ、又、古語において真名とも呼ばれる漢文表記である点も大きな理由の一つであろう。
しかしながら、江戸時代中期頃から国学が盛んになり、又、本居宣長が『古事記伝』を著した辺りから、漢文表記の『日本書紀』(※但し、同書は様々な神話の異説を伝えている。)ではなく、より豊富に古の大和言葉を伝えていると考えられている『古事記』が評価される様になった。今日における神話研究における『古事記』偏重とも言うべき傾向はこの辺りに端を発している。
そして、本居宣長の没後の弟子を自称し、復古神道の主唱者となった国学者の平田篤胤は、当時、禁教であったキリスト教関係の文献に触れて同教の神(God)概念に大きな影響を受けると、『古事記』に登場する天之御中主神をこの世界の根本的な主宰神として位置づけ、神道の最高神と看做した。かかる平田の天之御中主神観は平田の弟子達に継承され、復古神道が政治的な権勢を有した明治時代以降の神道界に大きな影響を与えた。
そして、具体的な影響の一つとして、明治時代以降、天之御中主神を祭神とする神社が少なからず現れた事が挙げられるが、これらの神社には二系統があり、その一つとして北極星の神であり、道教の天帝に比定される事もあった仏教系の妙見菩薩が天之御中主神に比定され、神仏分離以降、仏教式に祀られてきた同尊が天之御中主神として神道式に祀られるに至った場合と今一つとして明治時代以降に全く新規に建立された神社の祭神に迎えられた場合とを挙げる事ができる。
7.仏教におけるガネーシャ信仰
(4)日本密教
Ⅰ 漢訳経軌
 日本密教における歓喜天(聖天)信仰の第一次的なソースは漢訳経軌である。以下に関係漢訳経軌の概要を掻い摘んで略述してみる。

➀阿地瞿多訳『陀羅尼集經』第11巻
 『陀羅尼集經』は前期密教経典の一つで7世紀中頃に漢訳されたもので、内容的に前期密教の呪法の集成と言った性格がある。
 伝承によると、同経典は「金剛大道場経大明呪蔵分」という大部の経典の抄訳とされているが、飽くまで伝説の域を出ない。当該経典のテクスト研究によれば、インド伝来の各種経軌類や中国既存の密教経典を素材として中国で一つの経典として編纂されたと見る方が真実に近いらしい。
 さて、歓喜天(聖天)に関する印呪は同経典の第11巻に説かれている。此処で毘那夜迦(ヴィナーヤカ)の瞋りにより悪夢を見た時にその瞋りを鎮める印呪などが説かれるが、それらの他に双身歓喜天の法も説かれている。具体的には象頭の男女神が互いに抱き合う双身歓喜天の造像法、作壇法、印呪、浴油供などが説かれ、この法を修する事で一切の善事が随意に成就し、一切の災いが除かれると説く。

➁菩提流支訳『大使呪法経』
 先ず、毘那夜迦(ヴィナーヤカ)の衆生利益の一字呪を説いた後、一面四臂の毘那夜迦(ヴィナーヤカ)の図像、造像法、作壇法、供養法などを説く。
 図像は象頭人身で左の牙は折れ、金山を踏み、七宝冠を戴き、右第一手は斧、第二手は歓喜団を持し、左第一手は棒、第二手は牙を持しているとされている。

 その後、闘争での勝利、博打での勝利、怨家降伏、愛敬の獲得、悪友悪賊悪獣の遠離、富貴勢力の獲得、聡明等といった目的に応じた各種呪法を説く。
 続いて、曲鼻、一牙、象牙、黒頭、擔牡、利牙、魔王、烟色の八毘那夜迦(ヴィナーヤカ)とその造像法を説くが、これら八毘那夜迦(ヴィナーヤカ)は一切の罪障を除くと言う。
 そして、双身歓喜天の作壇法、造像法、浴油などの供養法などが説かれるが、その図像は象頭の男女神が夫婦として互いに抱き合っている姿である。
 

この双身歓喜天の法を修すると、所願が意のままに成就すると説かれている。
 続いて各種呪法を説かれた後、毘那夜迦(ヴィナーヤカ)は自分には毘那羅嚢伽、毘微那嚢伽、摩訶毘那夜伽などの別名があり、諸々の鬼神王を統べるとともに、三宝を護持し、大慈悲心より衆生を利益していると述べて虚空に上昇し、更に偈を以って毘那夜迦(ヴィナーヤカ)を持する衆生の願いに応じ、その財宝を満たし、害悪や恐れを除き、衆悪を斥け、住居は吉慶かつ清寧ならしめ、夫婦和合、英名の獲得等を成就し、上品の者には人中の王たらしめ、中品の者は帝師たらしめ、下品の者は富貴無窮にして娯楽は恒久かつ満たざること無からしめ、奴婢は群を成し、美女が庭に満ち、遊行自在ならしめると説き、毘那夜迦(ヴィナーヤカ)の陀羅尼を持する者は毘那夜迦(ヴィナーヤカ)によって常に護衛されると説いている。
 その後、改めて双身歓喜天の作壇法、造像法、浴油を中心とする供養法などが説かれるが、その図像は男天女天が抱擁し合い、蓮華を踏む立像で、女天の方が鼻の長さが男天より僅かに短く、男天は左手で、女天は右手で相手を捉え、又、面貌に関して眼は細く喜笑の相を浮かべ、いずれも西の方を向き、身は肥えていると言う。
 又、女天が猪頭で男天が象頭で共に胡跪する双身歓喜天の図像も説くが、行なう作法は同じと言う。
 この後、行者の注意事項が説かれ、1年間、五辛酒肉を断つこと、婦人の汚穢を遠ざけること、無智戯論悪語の輩と同席しないこと、悪事をしないこと、高貴な人と交流し、下品の者とは共にいないこと、厠を利用した時、その都度、沐浴すること等が説かれている。

➂菩提流支訳『使呪法経』
 先の『大使呪法経』の略本的な性格のもので(※或は『使呪法経』に様々な呪法を付加して編集し直したものが先の『大使呪法経』かも知れないが。)、毘那夜迦(ヴィナーヤカ)の衆生利益の一字呪、双身歓喜天の作壇法、造像法、供養法、毘那夜迦(ヴィナーヤカ)の衆生利益の偈、陀羅尼などを説く。

➃菩提流支訳『權現金色迦那婆底九目天法』
 菩提流支に仮託した偽経と言う。三面四臂の金色迦那婆底の図像、造像法、作壇法、供養法や呪を説く。
 図像の方は、身色金色、三面各々に三眼あり、左の第一手で歓喜団、右の第一手で蘿蔔根を持し、左右第二手で根本印を結び、白衣を着し、金山を踏む。
 この法の行者は一日三回供養し、行者は白衣を着し、不浄なものは用いず、不信の者、死亡や出産があった家の者、奴隷、女人、名ばかりの僧などを近づけないと言う。又、上品の者は人中の王に、中品の者は王師に、下品の者は富貴無窮が成就し、一切の善悪の事に関して求めるままに果たすことができるとされる。

➄金剛智訳『仏説金色迦那鉢底陀羅尼経』
 先ず、釈尊は金色迦那鉢底の陀羅尼を説くと、その陀羅尼を同尊に付嘱し、この陀羅尼によって障礙が除かれて諸法が成就すると説くとともに作壇法を説く。又、金色迦那鉢底自身も釈尊に向かってこの陀羅尼を持する者を擁護し、財産、飲食、財宝、奴隷に欠乏させることがなく、一切の真言法を速やかに成就させる事を誓った。
 続いて金色迦那鉢底の画像法が説かれるが、同尊の図像は人身象頭で身色金色の一面六臂の立像で、金山を踏み、その鼻は右に曲がり、左第一手は刀、第二手は歓喜団、第三手は剣棒を、右の第一手は金剛杵、第二手は宝棒を、第三手は索を持すると言う。そして、頭上には五色の雲を描き、その雲中より四天王や諸仙が散華し、金色迦那鉢底の左辺に倶摩羅(クマーラ)を、右辺に阿托薄倶(アータヴァカ)を描く。金色迦那鉢底の左下方に美女を描き、彼女は音楽の供養を行っている。右下方には四大夜叉を描き、それぞれ羊頭、猪頭、象頭、馬頭人身であって器杖を持し、虎皮褌を着す。尚、この法を修する者は妄語や邪淫をしてはならないこと、五辛などを食するのを止めること、悪人と親交することを止めることなどの注意事項が説かれる。


➅善無畏訳『大聖歡喜雙身大自在天毘那夜迦王歸依念誦供養法』
 先ず、双身歓喜天の由来が明らかにされるが、当該儀軌所説の由来譚については既述なので、最小限だけ以下に触れておく。
 マヘーシュヴァラとウマーの間に3000人の子がいて、その半分が男天である毘那夜迦(ヴィナーヤカ)を長とし、残り半分を女天である扇那夜迦持善天を長としていたと言い、毘那夜迦(ヴィナーヤカ)の方は自身の部族を率いて悪事を働き、一方、扇那夜迦持善天は善事を行っていたと言う。扇那夜迦持善天は実は観音菩薩の化身で、毘那夜迦(ヴィナーヤカ)の悪事を鎮めるべく兄弟として生まれたが、やがて両者は夫婦となったと言い、双身歓喜天はその姿とされる。
 続いて福利を求める善男善女に双身歓喜天の法が勧められ、又、同法を修めないと、他の諸尊の法も障礙によりその成就が妨げられると言う。又、大身呪、心中呪、心中心呪やそれらの呪に対応する印が説かれるが、大身呪は息災、敬愛に、心中呪は増益に、心中心呪は降伏に用いると言う。
  

続いて浴油を中心とする供養法の詳細が説かれるが、その中の道場観において歓喜天が無福の衆生に利益を与える為の摩訶毘盧遮那如来(大日如来)の化身である事が述べられている。そして、これらの法が成就すると、一切の善事が成就し、一切の悪事が消滅すると説かれるが、如法に修したにも関わらず、願事が成就しなかった場合には男天と女天の鼻を紐で結んで成就を促す結鼻頓合法も説かれている。
 その後、願事成就を願う調和法が説かれるが、その本尊は一面六臂の歓喜天である。その図像は象頭人身、牙は折れていて、左第一手は刀、第二手は菓子盤、第三手は輪、右第一手は棒、第二手は索、第三手は牙を持すると言う。
 最後に敬愛、降伏、口舌を停める為の一切成弁事業法が説かれ、其処では祈願目的に応じた印呪や作法が説かれる。

➆不空訳『大聖天歡喜雙身毘那夜迦法』
 先ず、身呪、心中呪、心中心呪が説かれ、続いて双身歓喜天の造像法、作壇法、供養法の解説が述べられ、双身歓喜天は象頭人身の男天女天の夫婦が相互に抱擁し合う図像とされる。又、供養法は浴油を中心としたものであり、所願を随意に成就できると述べる。

 続いて、調和毘那夜迦法を説き、本尊として一面六臂の歓喜天が説かれるが、その図像は右の牙が折れ、鼻はやや右向きという他は先の善無畏訳『大聖歡喜雙身大自在天毘那夜迦王歸依念誦供養法』所説と全く同じである。

➇不空訳『摩訶毘盧遮那如來定惠均等入三昧耶身雙身大聖歡喜天菩薩修行祕密法儀軌』
 先ず、仏弟子、僧尼、在家信者が聖天菩薩法を修して所願成就を果たすには、財を尽くし、あらゆる飲食を供養し、労働を提供して伝法の師や阿闇梨を歓喜させなければならないとし、歓喜させて後、伝法の師や阿闇梨の許で秘密の微細な教法を習い、修得すべきであると言う。
 そして、浴油供の説明が続いた後、伝法の師や阿闇梨を歓喜させて修行すると、息災、増益、敬愛、調伏の四種悉地を成就できると説き、上品の供養者は国王の威徳が得られ、中品の供養者は財宝に満ちて富貴になり、下品の供養者は衣食に困窮することなく自ずから足りると言う。
 此処で上品の供養者とは伝法の師や阿闇梨を歓喜させて秘密の教法を伝授され、如法に供養した者のことを指し、中品の供養者とは儀軌の要道や次第を具さには解せず、略しながら供養した者のことを指し、下品の供養者とは浴油供を行なわず、初分毎に供養だけは行なう者のことを指すと言う。
 続いて像末の仏弟子は機根が衰えて伝法の師や阿闇梨を歓喜させることができないから、秘密の教法を解さずして却って誹謗し、修行を粗略にして貧窮無福の種子を招いてしまっていると言う。だが、この聖天菩薩法を修すると、福徳が得られ、福智が円満に具足すると言う。
 最後に酒供が説かれるが、その意義について酒は毒物であるものの、医師が処方すれば、病を除いて安心が得られ、又、人を和合させて喜ばせるからであると言う。故に酒は歓喜水と呼ばれ、この歓喜薬を国王や貴顕の者が供養すると、必ず霊験があると言い、又、像末の仏弟子も発心して慇懃に供養を行い、修行を粗略にすることはなくなると言う。

➈含光記『毘那夜迦誐那鉢底瑜伽悉地品秘要品』
 編纂者とされる含光とは不空の高弟の一人で、安史の乱の際には師不空と苦労を分かち合うなどして長く彼と行動を共にしてきた僧で、その晩年は五台山金閣寺の住持を務めた。そして、この儀軌は師不空からの口伝を纏めたものと言う。
 先ず、誐那鉢底王(ガナパティ)の真言を説くと、続いて、息災、求財、求愛、調伏、延命、鉤召といった祈願目的に応じた語句の加除を説く。
 そして、毘那夜迦生歓喜心双身真言であるオンキリギャクソワカ(Om hrih gah svaha)を説き、行者はこの真言を常に誦すると障礙がないとされ、又、この真言には権実義があると述べる。先ず、キリ(hrih)は観音菩薩の種字であり、これは観音菩薩が毘那夜迦(ヴィナーヤカ)の障礙を抑えるべく進んで女天となった因縁に由来すると言い、従って、女天の方は権類の衆生であるから、キリ(hrih)は権の義を表すと言う。一方、ギャク(gah)は毘那夜迦神の種字と言い、常随魔と呼ばれると言う。その所以は、他の魔とは異なり、毘那夜迦は常に衆生を追って障礙や災難を齎し続けるからであると言う。かかる毘那夜迦の障礙は、梵天(ブラフマー)や他の諸神でも破ることができない程、強力であると言い、ただ観音菩薩と軍荼利明王のみが毘那夜迦の難を除くことができると言う。だから、香水を観音菩薩像に灌ぎ、十一面観音の根本真言を108回称えてその水を呪し、その後、その水を毘那夜迦像に灌いでから取り、又、十一面観音の根本真言を108回称えて呪してから行者がその水を自身に灌ぐと、障礙は自然に消滅すると言う。尚、毘那夜迦神は実類の衆生なので、ギャク(gah)は実の義を表すと言う。
 続いて、双身毘那夜迦調伏他悪真言として、オンギャクギャクウンソワカ(Om gah gah hum svaha)が説かれ、この真言は悪人を捕縛したり、厭離するのに用いるべきものとされる。ところで、この真言には両実義があると言い、その所以はギャク(gah)が二回登場するからであると言う。だが、実と権とは相即の関係にあり、実と言えども権であるとされる。と言うのは、実類の毘那夜迦は仏菩薩が懈怠の衆生を降伏すべく化したものであり、この事は障礙というものが、実際の所、懈怠から生じるものであり、そもそも懈怠ではない者には障礙が生じない所から明らかであると言う。それ故、実は権を顕しているのであり、仏菩薩の化身であることを知るべきであると言い、大日如来が衆生教化の宣言を行い、最後に化現したのが男天の毘那夜迦であると言い、女天は観音菩薩の化身と言う(「佛者毘盧遮那佛即宣言。無所不至之身。我為化度隨類眾生。普賢最後現毘那夜迦也云云菩薩者觀世音菩薩也。」)。
 それから、毘那夜迦(ヴィナーヤカ)の形像の意義や印などについて述べて、一面六臂の図像を説く。その図像は象頭人身、右の牙は折れていて、面はやや左向きで鼻は外側に曲がっていると言う。身色は赤黄で、左第一手は刀、第二手は菓子盤、第三手は輪、右第一手は棒、第二手は索、第三手は牙を持すると言う。この像の前で大真言を誦えると、所願が成就すると言う。
 続いて、象頭人身の双身歓喜天の図像が説かれるが、双身歓喜天の図像には権実義と両実義の二種があると言う。
 先ず、権実義の双身歓喜天の図像から説かれるが、この双身歓喜天は男天女天が抱擁し合う立像で、女天の方は身色が白肉色、天華冠を戴き、鼻や牙は男天より短い。目は細く、赤袈裟や福田相衣を着す。一方、男天は身色が赤黄色で、赤袈裟や福田相衣は着さず、黒色の衣をまとっている。又、目は広く鼻は長く、面貌は不慈の相であり、その面を女天に近づけ、愛惜の様相を呈していると言う。この像の場合には善増悪滅を期すると言う。
 両実義の双身歓喜天の場合、こちらも男天女天が抱擁し合う立像で、男天は女天の右肩にその面を載せて女天の背を視、女天は男天の右肩にその面を載せて男天の背を視、又、男天女天は共に法衣や天冠を着さないが、女天の方が目が細く、牙が短い。その他は権実義の双身歓喜天の場合と同じと言う。この双身歓喜天には一切の悪事消滅を期すると言う。
 

 それから、誐那鉢底王(ガナパティ)の法を修するに際して、先ず大日如来、続いて観音菩薩、それから軍荼利明王に礼拝すると、験が得られると述べる。と言うのは、大日如来と観音菩薩は本尊身であり、軍荼利明王は調伏身であるからと言う。そして、不空の言葉として、毘那夜迦の障礙を鎮めようとする場合、真言法を修するべきであるとし、その所以は、真言法には仏部、蓮華部、金剛部の三部があり、三部とはすなわち三尊、三尊とはすなわち仏、菩薩、金剛であり、仏、菩薩、金剛とは大日如来、観音菩薩、軍荼利明王のことであると言う。そして、これら三部の法は三業の懈怠を除き、懈怠を除くことで障礙が絶たれるから、誐那鉢底王(ガナパティ)の法を修する者は、大日如来、観音菩薩、軍荼利明王を先ず礼拝すべきであると述べ、大日如来の五字真言、十一面観音、軍荼利明王の真言が説かれる。
 そして、最後にこれらの秘密の妙義は守秘すべきものであり、無智不信の徒、悪人、不守口人等の非器の者には伝授してはならないと説き、非器か否かの選択をしなかった場合、障難があり、以上の制止を守る智者は速やかに悉地を成就すると言う。

➉憬瑟撰『大聖歡喜雙身毘那夜迦天形像品儀軌』
 この儀軌は含光の高弟憬瑟が含光の説を纏めたものとされ、その内容は歓喜天の図像に関するものである。
先ず、象頭人身の双身歓喜天の図像が説かれる。男天女天が抱擁し合い、男天は女天の右肩にその面を載せて女天の背を視、女天は男天の右肩にその面を載せて男天の背を視る。両天ともに足の踵を露にし、男天は華鬘を戴かず、赤色の袈裟を着す。女天は華鬘を戴くが、袈裟は着けず、又、両足で男天の足の端を踏む。両天の身色は白肉色で、赤色の裙を着し、各々両手で腰の上で相手を抱き、相手の背上にて右手で左手を覆う。
 続いて、一面六臂の歓喜天の図像が説かれる。これは障難除去の為の修法に用いるべきものとされる。その図像は象頭人身であり、左第一手は刀、第二手は菓子盤、第三手は輪、右第一手は棒、第二手は金剛、第三手は索を持すると言う。
 そして、一面四臂の歓喜天の図像が説かれる。その図像は象頭人身であり、右第一手は鉞斧、第二手は歓喜団を載せた盤、左第一手は牙、第二手は宝棒を持すると言う。
 それから、『不空奮怒王観自在菩薩経』所説の毘那夜迦金剛の図像が説かれ、その図像は象頭人身であり、左第一手は金剛杵、第二手は鉞斧、右第一手は索、第二手は三叉戟を持すると言う。
 最後に四方六臂毘那夜迦の図像が説かれる。東方の摧砕天(無憂大将)は天人形で、天冠に象頭を戴き、左手で傘蓋、右手で剣を持し、南方の飲食天(厳髻大将)は天人形で、天冠に象頭を戴き、左手で索、右手で華鬘を持し、西方の衣服天(頂行大将)は天人形で、天冠に龍頭を戴き、左手で弓、右手で矢を持し、北方の象頭天(金色伽那鉢底)は象頭人身で、左手で白瑠璃珠、右手で宝棒を持すると言う。

⑪般若惹羯羅訳『聖歓喜天式法』
 この儀軌は天地盤、霊符、道教風の呪言を取り入れた真言などが説かれている為、般若惹羯羅訳と謳っているものの、中国で編纂されたものと考えられる。
 先ず、天地盤の作成法について述べられている。天盤は円盤、地盤は方盤で、天盤には四葉蓮華を描き、東南西北の葉上に四歓喜天が配される。
 その内訳は、東方の歓喜天は日王歓喜天と呼ばれ、別名は無憂大将、日輪を頭上に戴き、憤怒の相を浮かべ、面色は赤色、右手で吠瑠璃、左手で独股杵を持しており、南方の歓喜天は愛王歓喜天と呼ばれ、別名は象頭大将、法師形で、右手で団餅、左手で蘿蔔根を持しており、西方の歓喜天は月愛歓喜天と呼ばれ、別名は厳髻大将、美女形で華鬘を頭上に戴き、右手で宝鏡を持し、左手で頬を支えており、北方の歓喜天は護持歓喜天と呼ばれ、別名は頂行大将、左右の手ともに刀印を結んで腰に当てている。尚、これら四歓喜天は一体の存在であって別体ではないと言う。
 地盤の八方、すなわち東に帝釈天、南東に火天、南に閻魔天、南西に羅刹天、西に水天、北西に風天、北に毘沙門天、北東に大自在天を配し、更に二十八宿、三十六禽が配される。
 この後、呪、印、霊符や祈願目的に応じた四歓喜天と八方天の組み合わせが説かれる。

⑫法賢訳『金剛薩埵説頻那夜迦成就儀軌経』
 宋代に法賢(ダルマバドラ)が漢訳した金剛薩埵が説いたとされる頻那夜迦(ヴィナーヤカ)の儀軌である。
 頻那夜迦(ヴィナーヤカ)に関する様々な呪法の集成で、歓喜天(聖天)関係の漢訳経軌の中では最も大部である。
 祈願目的に応じた多種多様な呪法が列挙されており、それらに応じた頻那夜迦(ヴィナーヤカ)の多様な図像の他、飲酒、梟、象、馬、牛、狗等の鳥獣の肉を食することや狗頭、髑髏、人骨、人脂、人肉等の使用を説くなど、黒魔術的な要素を多分に含み、又、祈願成就を促す方法として頻那夜迦(ヴィナーヤカ)の像を火で炙ったり、熱湯を注ぐことなども説かれている。

<まとめ>
 以上、関係漢訳経軌の概観してきたが、その多くにおいて双身歓喜天が説かれている事を知る事ができ、又、日本密教における歓喜天(聖天)信仰はかかる双身歓喜天への信仰が主流である。
 しかしながら、先述の様に双身歓喜天に関する資料は上述の漢訳仏典しか無く、今日、インド、チベット系の資料において見出す事はできない。一説には双身歓喜天信仰はガネーシャを信仰する秘教的セクトにその出自があるのではないかとも言われているが、確証は無く、その出自に関しては大きな謎となっている。

Ⅱ 歓喜天(聖天)信仰の歴史概略
 日本密教において歓喜天(聖天)は毘那夜迦(ヴィナーヤカ)と呼ばれる障礙神としては軍荼利明王などの降伏の対象となる一方で、ヒンドゥー教と同様、成功や幸運の神としてその信仰が受容されてきた。
 日本における歓喜天(聖天)信仰の始まりは、伝説によると、7世紀頃、修験道の伝説的開祖である役行者が摂津国の箕面山において歓喜天(聖天)を感得したこととされているが、史実としては、平安時代、弘法大師空海をはじめとする入唐僧の手により関係経軌がもたらされたことにより、その信仰が本格的に始まったと見る方が当たっているであろう。
 当初、歓喜天(聖天)信仰は、後七日御修法等の重要な修法の円満成就を祈願すべく行われる聖天供の本尊としてのものであった様だが、やがて、事相研究の進展とともに歓喜天(聖天)単独でも現生利益目的で信仰を集める様になった様である。又、かかる聖天供は最初の頃は真言密教の独占であったが、その後、天台密教の方でも入唐僧が相次ぎ、又、両密教の相互交流もあったが故に天台密教においても聖天供が行われる様になった。
 上述の様な事相研究の進展を背景に、例えば、鎌倉時代初期に編纂された真言密教の別尊法の集成である『覚禅抄』によると、歓喜天(聖天)は聡明、貴子、出世、賊の捕獲、博打に勝つことなどに関して功徳があると述べられ、又、含光の『毘那夜迦誐那鉢底瑜伽悉地品秘要品』の説に拠り、双身歓喜天の男天は大日如来の所変、女天は十一面観音の所変とする説が一般的に普及していった。
 さて、中世に入ると、歓喜天(聖天)の有する財宝神としての性質と障礙神としての性質は他の類似諸天諸神と結びつき、その信仰の在り方も多様な展開を見せた。例えば、財宝神としての性質に関して着目すると、歓喜天は宇賀弁才天、荼吉尼天(ダーキニー)、毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)と結びつけられ、又、より強力に財福を祈願する為の財福関係の諸天の合行法の実践などを背景に歓喜天(聖天)、弁才天、荼吉尼天(ダーキニー)の合体像なども考案された。因みに三天に関して高野山宝寿院の「宝寿院文書」に次の様な説を掲げている。
○聖天 自性身:金剛界大日月輪 受用身:観音  変化身:三足烏、天狐 等流身:雷電
○弁才天 自性身:蘇悉地大日明星  受用身:虚空蔵 変化身:白蛇 等流身:蜂
○荼吉尼天 自性身:胎蔵界大日日輪 受用身:文殊  変化身:狐  等流身:鳥
 その一方で、障礙神としての性質を通じて日本固有の障礙神である荒神信仰とも結びつき、歓喜天と三宝荒神を同体とする説も生まれた。
 近世以降、歓喜天(聖天)信仰は広く一般庶民にまで広がり、人々は福徳を祈願すべく、その霊験の高さが宣伝された各地の歓喜天(聖天)を参拝する様になった。歓喜天(聖天)を祭祀する寺院は密教寺院を中心に全国各地にあるが、特に著名な寺院として奈良の生駒山宝山寺(真言律宗)、京都の雨宝院(高野山真言宗)、東京の待乳山本龍院(聖観音宗)、埼玉の妻沼の歓喜院(高野山真言宗)などがある。

Ⅲ 歓喜天(聖天)信仰の概要
○供養法
 日本密教では歓喜天を本尊とする修法は聖天供(歓喜天供)と呼ばれる。かかる聖天供(歓喜天供)の具体的な内容として浴油供、華水供、酒供があり、又、聖天供には円壇を用いられる。
 特に浴油供は聖天供(歓喜天供)の中でも最極の秘法とされるが、これは銅器に清浄な油を入れて適温で温め、その油を柄杓で掬い、双身歓喜天像に注ぐもので、作法の詳細は口伝事項とされている。華水供は寅の刻(午前2時~4時)に汲んだ水である井華水(せいかすい)(※華水とも言う。)を閼伽香水として供えるもので、又、その水に花を浮かべて供える供養する所もある。そして、酒供は、その名の通り、酒を供養する供養法である。
 密教寺院において歓喜天(聖天)を祀る場合、歓喜天(聖天)のみを単独に祀らず、必ず歓喜天(聖天)の近くに十一面観音を祀り、その障りに備える。
 上述の聖天供は秘密裡に行わないと験が出ないとされているから、通常、これらの修法の光景はおろか、双身歓喜天の図像も、今日、広く知られているにも関わらず、眼にする機会は多くは無い。しかしながら、吉野聖天と呼ばれている修験道寺院の桜本坊(奈良県)の場合、年一回の大祭の時に参拝者が浴油に参加する事ができる。

○供物 
 歓喜天(聖天)の供物として歓喜団と言う、巾着団子、聖天団子とも呼ばれる菓子がよく知られているが、その原型はヒンドゥー教神のガネーシャが好むインドのモーダカであり、モーダカ自体はインドの一般的な菓子であるが、日本では双身歓喜天などの特定の尊格に備えられる菓子となっている。かかる歓喜団は蘇、蜜、麵、干薑、クルミ、石榴、苺など11種の材料を混ぜて、米粉の皮で包んで巾着の形を作り、油で揚げて作るものである。
 又、酒や大根も聖天供に際して好んで供えられる。大根は別名を蘿蔔根と言い、歓喜天(聖天)が住するとされる象鼻山に多く生えているとされ、又、同尊が好むとされている。

○その他
 その他、歓喜天(聖天)信仰で著名な寺院では一般信徒向けに和讃などの配布を行っているが、例えば、生駒聖天の名で知られている宝山寺の「聖天講式」には「大聖歓喜天は陰陽二道の根源なり。万象是より生ず。金胎両部の教主なり。」とあり、又、「又言わく若し人、諸天の為に捨てられて、我を念へば即時に悉地を現じて皆円満すと云々。当に知るべし、此の天の利生の方便は自余の神仏を超過す。」とあるが、かかる記述において双身歓喜天の姿が陰陽二道、金胎不二などの根源的な不二一元論的真理を想起させるとともに、それが故に信徒の間において諸神仏によって捨てられた祈願もこの双身歓喜天に一心に祈願すれば成就すると信じられている様が反映している様に伺える。
7.仏教におけるガネーシャ信仰
(1)上座部仏教圏

 南伝上座部仏教圏であるミャンマー、カンボジア、タイにおいてガネーシャをはじめとするヒンドゥー教神は現世利益の神々として信仰され、特にガネーシャの場合、障害を除去し、成功を齎す神として信仰されている。
 ミャンマーにおいてガネーシャはマハペインネ(Maha Peinne)と呼ばれているが、当該呼称はガネーシャの別名であるサンスクリット語のマハーヴィナーヤカ(Mahavinayaka)を上座部仏教における古典語であるパーリ語に置き換えたマハーウィナーヤカ(Mahawinayaka)に由来していると言う。
 又、タイの場合、ガネーシャはプラピカネット(Phra Phikanet)、プラピカネーシャ(Phra Phikanesa)と呼ばれるが、これらはそれぞれ同じくガネーシャの別名であるサンスクリット語のヴァラヴィグネーシャ(Vara Vighnesa)やヴァラヴィグネーシュヴァラ(Vara Vighnesvara)に由来するものである。その一方で現代のヒンドゥー教において一般的なガネーシャという呼称の方はあまり用いられていない様である。
 一方、南伝上座部仏教揺籃の地とも言うべきスリランカの場合、仏教徒であっても、ヒンドゥー教神に現世利益を祈願する点は先述のタイ、ミャンマー、カンボジアと同じであるが、ガネーシャに関して言えば、スリランカの象頭の悪魔ナーラーギリ(Naragiri)の伝承の故か、少なくとも仏教徒の間ではあまり信仰は盛んでは無い様である。

(2)インド密教
 後述するチベット密教や日本密教となるべく重複しない限りで以下に略述する。
 ガネーシャはインド密教の様々なタントラにおいて他のヒンドゥー教神とともに護法神として登場するが、単独では主に世俗的な成功を齎す財宝神として信仰されていた様である。
 インド密教の成就法集である『サーダナマーラー』や曼荼羅儀軌集『ニシュパンナヨーガーヴァリー』には四臂系と十二臂系の図像が説かれている。
 尚、日本密教においてお馴染みの象頭の男女神が抱き合う双身歓喜天に相当する図像はインド系の第一次資料には見当たらず、又、現在までの所、インドにおいて遺品も発見されていない。

◇四臂系
➀身色白色、右手に三叉戟、団子、左手に斧、大根を持し、鼠の上に立つ。

➁身色白色三眼、右手に大根、斧、左手に三叉戟、髑髏杯を持し、鼠の上に立つ。

◇十二臂系
➀身色赤色三眼、右手は斧、矢、鉤、金剛杵、剣、戟を持し、左手は杵、弓、カドヴァーンガ杖、血が盛られた髑髏杯、乾肉の入った髑髏杯、鞭を持す。

(3)チベット密教
Ⅰ 導入
 チベットは歴史的に貪欲にインド密教、特に後期密教系のタントラやそれらに伴う膨大な教法を貪欲に吸収し、且つ整理し、所謂、チベット密教を形成してきた。
 かかる教法類の吸収に伴って多様なガナパティ(ガネーシャ)像も齎されたが、以下に図像別に主要なものを取り上げる事にする。
 尚、チベット密教においてもインドの場合と同様、双身歓喜天は知られておらず、チベット系資料にもおいても言及が無い。

Ⅱ 図像
➀一面二臂象
 身色白色、右手に大根、左手に髑髏杯を持す。


➁マハーラクタガナパティ
 マハーラクタガナパティは母タントラ系の密教の一つであるサンヴァラ密教系のガナパティ(ガネーシャ)で観音菩薩の化身とされている。チベット密教の伝承によると、観音菩薩が魔神ヴィナーヤカを殺害し、その首を刎ねた後、その首を自身に据えた姿がマハーラクタガナパティであると言う。
 その図像は身色赤色三眼で二十臂、宝石を吐き出す鼠の上で踊る姿をしている。そして、右手は斧、矢、鉤、金剛杵、剣、槍を持し、左手はすり棒、鉢、血を満たした髑髏杯、人肉を満たした髑髏杯、楯を持している。
 ところで、ガナパティ(ガネーシャ)はチベット密教の一派サキャ派とも密接な関係がある。ある時、成就者サンツァ・ソナムギャルツェンがガナパティ(ガネーシャ)の法を修していると、ガナパティ(ガネーシャ)が出現し、彼を須弥山の頂上に連れてゆき、下界を見る様に促した。サンツァ・ソナムギャルツェンは恐怖のあまりに下界をはっきりと見る事ができず、僅かに西チベットと中央チベットに相当する地域を辛うじて眼にしたに留まった。すると、ガナパティ(ガネーシャ)は、今、眼にした地域はサンツァ・ソナムギャルツェンが支配できる地域となる筈であったが、彼はガナパティ(ガネーシャ)の言葉にすぐに従わなかったので、その支配権は彼の子孫に委ねられるであろうと告げた。果たして、ガナパティ(ガネーシャ)の言葉通り、サンツァ・ソナムギャルツェンの子パクパがモンゴル帝国(元)のフビライハンの帰依を受けてその国師となり、モンゴル帝国の後ろ盾の許、パクパらサキャ派がチベットの支配権を手中にしたと言う。
 上述の様な伝承があるが故にサキャ派ではガナパティ(ガネーシャ)が重要視され、特にマハーラクタガナパティは最も強力なガナパティ(ガネーシャ)の相と看做され、その法はサキャ派の分派であるツァル派では「十三の黄金法」を構成する「三大紅」の一つとして門外不出の秘法の一つとなっている。


➂一面四臂像
 一面四臂像はヒンドゥー教において最も多く見られるが、チベット密教においても幾つかのヴァリエーションがある。それらのヴァリエーションは典拠となっているタントラ等の教法の相違に由来するものである。




➃ラーガヴァジュラガナパティ
 ラーガヴァジュラガナパティはアティーシャがチベットにその教法を齎したと言われ、主にカダム派において、そして後にゲルク派においても伝えられてきたガナパティ(ガネーシャ)である。
 その図像は身色白色の三面六臂で、中央は象面、右方は鼠面、左方は猿面で、右手は金剛杵、大根、剣を持し、左手は菓子、酒を満たした髑髏杯、鉞を持し、更に猿が同尊の男性器を口淫の様に咥えている姿である。
 人によってはタントラ仏教の図像の中で最もポルノティックと評する人もいるが、同尊の名であるラーガヴァジュラ(Ragavajra)を訳すと、愛金剛、或は愛欲金剛という意味になるから、一般的にガナパティ(ガネーシャ)信仰は財宝神信仰の一環として行われているが、同尊に関しては愛欲、性愛と密接な関係にある事が伺える。


➄ラクタガナパティ(ニンマ派系二臂像)
 主にニンマ派で伝えられてきたもので、その図像は身色赤色の一面二臂の全裸形で、右手は金剛鉤、左手は索を持しており、妃として雌猿を抱き寄せている。


➅ラクタガナパティ(ニンマ派系四臂像)
 上記と同様、主にニンマ派で伝えられてきたもので、ニンマ派の埋蔵教法(テルマ)に由来する。その図像は身色赤色だが、象頭のみは白色であり、右手は大根、菓子を持し、左手は数珠、金剛鉤を持している。そして、同尊を猿面の女神が両手で支え、且つその男性器を口淫の様に口で咥えている。
 同尊は強力な財宝神と看做されているが、図像的には先述のラーガヴァジュラガナパティの影響も伺える。