摠見寺 | 徒然草子

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先日、安土城跡を訪れたが、その際に摠見寺も併せて拝観した。
織田信長は安土山に安土城を築城した際にその城内に摠見寺を建立したが、その伽藍の規模は城内域において、通常、見られる持仏堂のレベルを超えて本格的な寺院であった。
現在、摠見寺は臨済宗妙心寺派の禅刹だが、建立当初は無宗派であった様で、その本堂の建築様式は、発掘調査によると、密教形式のもので、近くに鎮守社も備わり、又、初代の住持は東海地方の牛頭天王信仰の中心地であった津島牛頭天王社の社僧堯照法印(真言僧)であったと言う。
さて、本能寺の変に際して織田信長が亡くなると、間も無く、安土城も出火し、天守閣などが焼失したが(※出火理由については諸説がある。)、摠見寺の方は殆ど無傷であったと言い、又、寺の住持職の方は織田一門出身の禅僧である正仲剛可(円鑑禅師)が豊臣秀吉の任命を受けて堯照の後を継承して以降、織田一門の者が選任される伝統の素地ができたと言われている。尤も住持職に関して、正仲剛可の後を継いだ玉甫が亡くなると、しばらくの間、不在の期間が続いた様だが、織田一門の出である京都の龍安寺の雪庭寿珪が同寺の住持となって以降、臨済宗妙心寺派に属する様になった。
一方、安土城の方は天守閣等の焼失以降も織田氏の居城としての機能を果たしていたが、1585年に豊臣秀次の近江八幡城の築城とともに廃城になったと言い、安土城の城郭としての歴史は僅か10年弱を以て終えた。
摠見寺に関しては、上述の通り、安土城無き後も存続し、1623年の幕府の裁決以降、江戸時代を通じて織田一門の者が同寺の住持となった。しかしながら、幕末期の1854年の出火により摠見寺の伽藍は、今日、現存する仁王門と三重塔を残して焼失。その後、旧伽藍から離れた伝徳川家康邸跡地にて仮本堂などを建立し、今日に至っている。
かかる仮本堂の建っている敷地は、今日、安土城跡の南正面入口から山頂部の天守閣跡へと続く大手道に面している。そして、敷地に入り、少しばかり歩くと、仮本堂へと続く石段が左手に見えてくる。
尚、仮本堂はその名称に仮という語を冠しているとは言え、建物自体は宮内省より1929年に京都御所の殿舎の一部を譲渡されたものと言われているだけあって、それ相応の佇まいが感じられ、本堂と称するよりは方丈と称する方が相応しい様に思われる。方丈が本堂の機能を担う事は臨済宗系の禅刹では決して珍しい事では無いが、仮本堂と称する所からすれば、何時の日か本堂を再建させたいという意思があるのであろうか。
さて、玄関に入ると、先ずはその正面に像主不明の大きな木像が眼に入る。そして、その左手に置かれている小振りな厨子には大黒天が、又、右手奥の龕には禅刹でよく見かける合掌する韋駄天が安置されていた。
そして、拝観順路の方は玄関を入って上がり、左手の入口から建物内を一周する様になっている。
入口から最初の部屋には赤沢嘉則氏の襖絵「老櫻図」や現在、その所在が不明の蛇石の上に立つ織田信長の画像が飾られている。
続いて仏間があり、仏間の前の廊下部分には羅漢を描いた屏風が立てられている。仏間の正面には本尊として十一面観音像が安置され、その左手に束帯姿の織田信長像が、右手には摠見寺の開山とされている正仲剛可(円鑑禅師)の像が安置されている。室町時代作の十一面観音像を除けば、いずれも江戸時代の作であり、彩色の方もよく残っている。特に織田信長像の方は、調査の結果、その像内に舎利が安置されていると言うから、嘗ては織田一門が歴代の住持を務めてきた同寺にとって同像は特別な意義を有していた事を推察する事ができる。
仏間を後にすると、茶室に赴き、其処で庭を見ながら、茶菓子をいただくことになる。この日、茶菓子を用意してくれたのはとても人あたりの良い婦人で、茶菓子を差し出された後、会釈を交えた少しばかりの言葉のやりとりを終えて、「どうぞごゆっくりして下さい。」と微笑みながら、建物の奥へと姿を消した。
上述の様な同寺の婦人の気持ちの良い応対を受けて、以前に記事にも書いた事があるが、ふと奈良の庭園で有名な某寺の事が想い出され、両寺における婦人の応対の有様があまりにも対照的である事に思いあぐねた。茶菓子をいただき、束の間のまったり感を味わった後、婦人に礼を述べると、再び拝観順路に戻った。
仮本堂の裏手二部屋には山本燈舟氏の安土城や摠見寺を題材にした水墨画の襖絵や西村恵信氏の「十牛図」が貼られた襖とかがあり、これら二部屋の前には廊下を挟んで庭園が広がっている。その庭園では腕組みをした陶器製の蛙の置物が眼についたが、そのユーモラスな表情が印象的であった。
拝観順路を一巡後、再び玄関へと戻り、仮本堂を後にして大手道に出で天守閣跡を目指した。そして、大手道を登っている際に仮本堂の方を見遣った時にその敷地内における鐘楼や小さな二宮金次郎像の存在に気付いたが、その際に二宮金次郎像の由来について少しばかり気になった。
さて、天守閣跡へと至る石段の所々に石材として用いられた石仏があり、それらには「石仏」と書かれたプレートが設けられており、その傍らにはこの石段を登って行った人達が置いたのであろうか、それぞれに幾つかの小銭が浄財として置かれていた。そして、これらの石仏の他にも、やはり、石材として用いられた室町時代の仏足石もその道中にあったが、仏足石にも石仏と同様に小銭が幾つか置かれていた。

天守閣跡に至る道の途中にある伝二の丸跡やその近くの伝長谷川秀一邸跡には織田信長公本廟や織田信雄四代供養塔がある。
織田信長公本廟は遺体が発見されなかった織田信長の幾つかある墓廟の一つで、基盤となる石壇の上に更に立方体風に組まれた石壇があり、その上に丸い石が置かれている。この廟には豊臣秀吉の手により織田信長の武具や衣装類などの遺品が納められたと伝えられているが、既に多くの人達も気になっていた事だが、この墓廟の他に例の無さそうな奇妙な形態が、やはり、とても気になった。しかしながら、現時点ではこの点について説明している資料の存在を知らない。
又、近くの伝長谷川秀一邸跡には信長の子である織田信雄四代供養塔があり、こちらは普通の五輪塔である。一説によれば、織田信雄は安土城の天守閣焼失の原因を作った人物とも言われているが、仮に彼が天守閣焼失の真犯人であるとすれば、彼の供養塔の存在は、飽く迄、現代的視点による偏見に過ぎないのかも知れないが、極めて皮肉めいたものに感じられる。
さて、安土城の天守閣については既に多くの人達が述べている所なので、敢えて愚見を付け加える事は無い。ただ、安土城の天守閣の特徴の一つとして挙げられるものとしてその居住性の高さがあり、通常、城主は本丸などに居住していた所、織田信長の場合、天守閣を自身の居住地としていた様である。その所以はよく分からないが、京都の極めて近い場所に拠点を置き、かつその勢いからして天下人の最有力候補に位置していた織田信長の強い自負心い裏打ちされたものであろうか。天守閣跡の高台から琵琶湖方面を眺めながら、ふと考えてみたものである。
天守閣跡を後にすると、安土山を下り、摠見寺の旧伽藍方面へと向かう。旧伽藍には本堂跡地や三重塔、仁王門があるが、本堂跡地からの眺望は涼しげな風が流れていた所以もあってか、実に気持ちが良かった。

又、本堂跡のすぐ近くには上述の通り三重塔があるが、この三重塔は、元来、甲賀の天台寺院である長寿寺のものを移築したものと言う。摠見寺の伽藍はかかる三重塔の他に近隣寺院の建物を移築したものがその他にもあった様だが、上述の火災により、今日ではそれらの様相は想像によって偲ぶしかない。
以上、摠見寺拝観、及び安土城跡来訪に関する個人的な備忘録であるが、その日、時間の都合により、安土考古博物館などの周辺施設に行く事ができなかったのが、心残りである。その辺りに関しては、折を見て、改めて訪れてみたいと考えている。