王政君 | 徒然草子

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以前、このブログでCSで流れていた「母儀天下」(邦題「クィーンズ、長安、後宮の乱」)のことを取り上げたが、主人公である肝心の王政君のことを殆ど取り上げなかったので、今回は彼女のことに焦点を当てたいと思う。
以前にも述べたが、当ドラマでは最晩年の王政君の回想を交えつつ、賢明かつ善良だった王政君が哀帝即位時(紀元前6年)以降、絶対的権力の獲得を目指して新たな戦いの決意をするという形で終わっているが、そこで、以下、当ドラマ以降の彼女の動向の概略を辿ってみることにする。

紀元前6年に哀帝が即位すると、王政君は太皇太后となったが、同時に祖母の傅昭儀は皇太后となり、生母の丁姫は皇后と称される様になった。太皇太后としての王政君は宮室に留まり続けたものの、やはり、傅氏一族が勢力を持つ様になるとともに、一方、王氏一族は圧迫を受ける様になり、傅昭儀や丁姫の尊号(皇太后、皇后)に反対した王莽は大司馬を辞職する羽目となり、その結果、封国の新野県に下野した。又、王政君の兄弟である王根も封国へ追われ、やはり、王政君の兄弟である王商の子王況は爵位剥奪の上、庶人に落とされるなどした。
ところで、哀帝自身はその治世において武帝や宣帝を範にしようとしていた様だが、その一方で董賢との同性愛に溺れていた様で傅氏一族から皇后を迎えていたにも関わらず、子は無く、更に死時に際して玉璽を董賢に託している。
紀元前5年、哀帝の祖母である傅太后や生母である丁皇后が立て続けに亡くなった。その頃、王莽は封国において謹厳を装っていたが、その一方で王莽の復権運動が起こり、紀元前2年、日食が起こったことを理由に王莽は国政に復帰している。かかる王莽の復帰には王政君の力が大きく関わっていたと言われている。
紀元前1年に哀帝が亡くなると、王政君は直ちに董賢に託されていた玉璽を回収し、更に董賢の職を免じて自殺に追いやった。続いて太皇太后として詔を出して王莽を大司馬に任じ、その輔弼とした。又、王政君は王莽とともに哀帝の外戚、側近の徹底排除に乗り出し、既に亡くなっていた傅太后と丁皇后の尊号を剥奪してそれぞれ定陶恭王母、丁姫とし、自殺した董賢の父の官爵は剥奪され、そして、傅氏の出であり、哀帝の皇后であった傅皇后は宮室を追放され、次いで庶人の地位に落とされ、夫である哀帝の陵の守をする様に命じられ(その後、傅皇后は自殺した。)、その他傅氏、丁氏の多くの者が何らかの罪を問われ、中央から追放された。
紀元後1年、王政君は王莽と図って9歳の中山王を帝位に就けた。平帝である。そして、王政君は称制臨朝し、王莽と二人三脚で国政を統べる様になった。又、同時に王氏一族が外戚として再び権勢を振るう様になった。そして、新たな外戚勢力の出現を未然に防ぐべく、王莽は平帝の生母衛姫とその一族である衛氏は中山国に留めた。ところが、王莽の長子王宇がその事を諌めたので、王莽は王宇夫妻と衛姫以外の衛氏一族を誅殺した。
さて、王莽はこの頃から帝位簒奪をも視野に入れたと思われる権力強化の為の様々な動きを見せる様になったが、恐らく、そうした動きを快く思わなかったと考えられる王政君を懐柔すべく彼女自身や侍女も含む彼女の周辺に対して決め細やかな気遣いを見せ、かつ王政君の周辺において王莽自身の美徳の評判が流れる様に工作した。
紀元後4年、王莽は自身の娘を平帝の皇后にした。この件については王政君は反対だったが、結局、王莽に押し切られた。同年、王莽は新たに設けた宰衡という地位に就き、列侯諸王よりも上位に立った。
紀元後5年、平帝が急死した。一説によると、平帝が自身の生母である衛姫とその一族を排除した事を恨んでいることを王莽が知り、毒殺したと言われている。同年、王莽は宣帝の玄孫である 2歳の孺子嬰をその後嗣とした。時に(恐らく王莽の意を受けた)人々が孺子嬰を周の成王に、王莽を周公に準えようとした。やはり、これに対して王政君は反対したが、止めることはできなかった。又、武功県の井戸から白い石が出てきて、その石に王莽の登極を促す文が書かれていたと言う。王莽は王政君に報告した所、一蹴されたので、今度は自身の側近である王舜を派遣して、当時、広く一般的に信じられていた神秘的な符命の権威を以って王政君を説き伏せ、認めさせた。この符命を基に王莽は仮皇帝を自称し、かつ人には摂皇帝と呼ばせ、本来の帝位継承者だった孺子嬰をその皇太子とし、朝政を統べた。かかる事態に漢室存亡の危機を認めた帝室の一人である安衆候劉崇らが紀元後6年に挙兵したものの、王莽の軍に敗退した。
紀元後8年、やはり王莽の意を受けたと思われる符命が出現、王莽は符命の件を太皇太后である王政君に報告し、その後、正式に帝位に就いた。そして、国号を漢から新に改め、太子子嬰は廃された。
王莽の即位後、その意を受けて王舜が太皇太后である王政君の許に趣き、玉璽の授与を請うた。自身の甥である王莽による漢室滅亡を憎んでいた王政君は王莽のことを激しく非難し、漢室に対する忘恩ぶりを指摘して、この様な者の食べ残しは豚や犬ですら喰わないと激しく罵り、哭いたと言う。しかしながら、王舜の説得に応じて玉璽を王莽に渡すことにしたが、その際に王政君は玉璽を地面に叩きつけた為、玉璽の一部が欠けてしまったと言う。そして、王政君は、自身の死後、王氏一門が族滅するであろうと告げたと言われている。尚、玉璽を受け取った王莽は大いに喜び、王政君の称号を漢室の太皇太后から改めて新室の文母太皇太后という号を奉った。
さて、王莽は漢室が滅んだという理由で、元帝廟を取り壊し、王政君の為に長寿宮を整備した。王莽はかかる長寿宮で王政君の為の酒宴を催そうとしたが、元帝廟が取り壊されているのを見た王政君は哭きながら、漢室の神霊が存していた宗廟が取り壊され、又、神霊が辱められている様な所で漢室の妃である自分は酒食を摂ることはできないとして酒宴に参加することなく、去ったと言う。又、王莽は漢の制度を悉く改め、臘祭を12月から11月とし、近侍する官吏の服の色を黒色から黄色に改めたが、王政君は漢代の慣習を守って臘祭は12月に行い、自身に所管の官吏の服の色は漢代の黒色を用い続けた。
紀元後13年、王政君は亡くなった。その遺骸は元帝の陵に合葬された。