説一切有部における原子論の概観 | 徒然草子

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インド仏教における有力部派であり、大乗仏教の教理にも大きな影響を与えた説一切有部のアビダルマにおいて物質的存在者に関する様々な思索が行われたが、所謂、原子論もその一種である。
原子は極微(パラマ・アヌ)と呼ばれるが、アビダルマにおける議論の根拠となる『アーガマ』において見出すことはできない。しかも、かかる説一切有部の原子論は『大毘婆沙論(マハーヴィバーシャ)』などの中期以降の論書から登場するので、恐らくジャイナ教や正統バラモン哲学の一派であるヴァイシェーシカ学派などとの論争や交流の過程から影響を受けて形成されてきたものと考えられている。
さて、アビダルマにおける原子概念は数学上の点概念に近く、物質的存在者の最小単位であって、それ自体は空間的に場所を占めないと言う。何故ならば、もし場所を占めるのであれば、それは分割可能であり、その場合、当該存在者は原子とは言えないからである。
そして、かかる原子は上下左右前後に集合することにより微粒子を形成するとされているが、その際にそれらの原子が接触することはない。というのは、もし、接触するのであれば、それには部分というものがあることになり、その場合、当該存在者は分割可能であることを意味するから、原子とは言えなくなるからである。
原子は互いに接触することなく、7つ集合することで、微粒子を形成するとされるが、次に微粒子が7つ集合することで、やはり、一つの粒子が構成されると言う。上記の様な集合を繰り返すことによって物質的存在者の階層が構成されて、最終的には日常的に眼にする物質的存在者となる訳である。
ところで、上記までの概観では原子論は物質的存在者の空間的組成の議論に留まっているが、説一切有部では物質的存在者の多様性を説明すべく、物性についても原子によって説明しようとする。
ところで、物性に関する議論としては古くから四大説が行われてきた。

①地:堅(堅固性)   ②水:湿(湿潤性)   ③火:熱(温度)   ④風:動(流動性)

説一切有部の原子論では『アーガマ』にも登場する四大を物質的存在者の基本的特性として認めた上で、物質の基本的特性としての四大は原子によって担われるとし、物性の多様性は物質的存在者を構成する四大の原子の勢力によって決定されると考えるのである。例えば、堅い物質の場合、堅の性質は地の原子が担うから、地の原子が勢力が強いが故に堅いと説明される。此処で物質における原子の勢力とは何かということが問題になるが、これに関しては原子そのものの質的勢力の強度によって勢力差が決定されるとする説と特性を担う原子の数量的な差によって決定されるとする説が出てくる。この問題に関して、説一切有部の正統説は前者の説を支持している。というのは、麦粉の粉末と塩の粉末を同時に同量だけ味わった場合、口中において鹹さだけが残る様なものと説明する。
物質的存在者の多様性は上記の様な物性に留まらず、長、短などの形や青、黄、白、赤などの色といった質的特性にも及ぶが、これに関しても、長、短等の形の特性を担う原子や色などの質的特性を担う原子に由来すると考え、それらの原子による配列や規制によって物質的存在の形や色が決定されると考えるのである。
以上の様な原子論の発達に関して、上述の通り、他学派との交流が外的契機と考えられているが、その一方で内在的契機としてアビダルマの発達とともに物質的存在者の理解に関して認識論的、現象論的傾向が強まった為とも思われる。上述の四大についても、釈尊の時代には素朴に物質の基本元素として考えられていたのであるが、これらに関して認識論的、現象論的理解が発達するのに反比例して物質的存在者それ自体が不可知の領域に置かれがちになったものと思われ、不可知の領域に置かれがちになった物質的存在者の知的理解に関して、アビダルマの論師達はその質料に着目し、原子論の導入によって改めて知の領域の許に置こうとしたものと思われる。
とは言え、説一切有部の原子論については、以下の様な難点が指摘されている。

①原子そのものが知覚、認識できないものならば、原子の集合体である物質的存在者についても知覚、認識することはできないのではないか。

②元来、原子は物質的存在者の質料における量的分析概念であるが、説一切有部の議論では質料における特性をも実体化して原子に帰しているから、却って物質的存在者に関する議論に混乱をもたらしている。

上述の説一切有部の原子論の難点については、同部派の分派である経量部の原子論において解決の試みが行われているが、此処では略しておく。