国生み~大国の存在の記紀総括110-スサノオと出雲8- | 記紀以前の日本史を探す

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古事記や日本書紀、俗に偽書とされる歴史書、古代アジア各国の歴史書などから古代(紀元前1000年頃~)日本列島の真実の歴史を考えて行くブログです。

□スサノオの子孫

 

古事記:

 

 「故而(に)其の櫛名田比賣を以て、
  久美度邇(くみどに:格子戸)起ち
  生まれる所の神名八嶋士奴美神と謂う

  又 大山津見神之女の名神大市比賣娶って生む子大年神、

  次に宇迦之御魂神

 

  兄八嶋士奴美神、大山津見神之女の名木花知流比賣
  娶って子、布波能母遲久奴須奴神生む

  此の神淤迦美神之女の名日河比賣娶って子、

  深淵之水夜禮花神生む

  此の神天之都度閇知泥神娶って子、淤美豆奴神生む

  此の神布怒豆怒神之女の名布帝耳神娶って子、天之冬衣神生む

  此の神刺國大神之女の名刺國若比賣娶って子、大國主神生む

  亦名大穴牟遲神と謂う

  亦名葦原色許男神と謂う

  亦名八千矛神と謂う

  亦名宇都志國玉神と謂う

  幷(あわ)せて五名有り」

 

日本書紀一書第一:

 

「乃ち奇御戸(くみど:格子戸)に於いて起ちて為す
 而(すなわ)ち兒が生まれて
 號(よびな)淸之湯山主三名狹漏彦八嶋篠という

 一つに淸之繋名坂輕彦八嶋手命と云う

 又 淸之湯山主三名狹漏彦八嶋野と云う

 此の神の五世孫、即ち大國主神という

 篠、此れ小竹也、此れ斯奴(しぬ?)と云う」

 

一書第二:

 

「而(なんじ)長く養い然る後、素戔嗚尊、
 妃の所而(に)生まれた兒を以て之(これ)六世孫と為す

 是(これ)大己貴命と曰(い)う

 大己貴、此れ於褒婀娜武智(おほあなむち)と云う」

 

一書第六:

 

「一書に曰く

 大國主神、亦の名大物主神、亦の號(よびな)國作大己貴命
 亦、葦原醜男と曰(い)う、亦、八千戈神と曰(い)う、
 亦、大國玉神と曰(い)う、亦、顯國玉神と曰(い)う

 其の子凡て一百八十一神有り」

 

▽家系

 

古事記:

 

              櫛名田比賣

                  ├─────八嶋士奴美神

                スサノオ

                  ├─────┬大年神

大山津見神───┬神大市比賣      │

            │              └宇迦之御魂神

            │

            └木花知流比賣

                 ├──────布波能母遲久奴須奴神

              八嶋士奴美神

 

         布波能母遲久奴須奴神

                ├───深淵之水夜禮花神

    淤迦美神──日河比賣        ├───淤美豆奴神

                       天之都度閇知泥神

 

         淤美豆奴神

             ├───天之冬衣神

布怒豆怒神──布帝耳神     │

                      ├───大國主神

          刺國大神──刺國若比賣

 

▽八嶋士奴美神

 

古事記では「八嶋士奴美神」と書くが、日本書紀では、

「號(よびな)淸之湯山主三名狹漏彦八嶋篠という
 一つに淸之繋名坂輕彦八嶋手命と云う
 又 淸之湯山主三名狹漏彦八嶋野と云う」とする。

 

「淸之湯山主三名狹漏彦八嶋篠」と「淸之湯山主三名狹漏彦八嶋野」

は共通性があるので良いですが、「淸之繋名坂輕彦八嶋手命」は

「淸」と「八嶋」しか共通性がありません。

 

どうも、別人ではないかと考えてしまいます。

 

あと、「八嶋士奴美神」は叔母である「木花知流比賣」と

本当に結婚したのだろうか?

 

古事記に書かれている「兄八嶋士奴美神」の「兄」が気になり

どうも、いまいち納得出来ません。

 

わざわざ、書く必要がないと考えています。

 

もしかしたら、別人の可能性もあるのかも知れません。

 

▽木花知流比賣

 

今後、解読する部分ですが、

古事記には「木花」にまつわる話が書かれています。

 

「於是 天津日高日子番能邇邇藝能命 於笠紗御前 遇麗美人

 爾問「誰女」答白之「大山津見神之女名 神阿多都比賣

 (此神名以音)亦名謂木花之佐久夜毘賣 此五字以音」

 又問「有汝之兄弟乎」答白「我姉石長比賣在也」

 爾詔「吾欲目合汝奈何」答白「僕不得白 僕父大山津見神將白」

 故乞遣其父大山津見神之時 大歡喜而 副其姉石長比賣

 令持百取机代之物 奉出 故爾 其姉者 因甚凶醜 見畏而返送

 唯留其弟木花之佐久夜毘賣 以一宿爲婚」

 

簡単に書くと、当時の大山津見神の二人の姉妹を

天津日高日子番能邇邇藝能命は娶ろうと思ったが、

姉の石長比賣が醜かったので娶らずに送り返したと言う話です。

 

神阿多都比賣の亦の名に「木花之佐久夜毘賣」があり、

「石長比賣」=「木花知流比賣」と考える人もいるようです。

 

しかし、明らかに時代が異なるので別人でしょうが、

血縁関係は大いに在り得ると思います。

 

「神阿多都比賣」は「亦の名木花之佐久夜毘賣」と書いていますが、

「木花知流比賣」も本来は「亦の名」だったのだろうか?

 

他のサイトでも書いてありましたが、

「花」が「咲け」ば、必ず「散り」、「実」になります。

 

狩猟・採取を基本と稲作で補う生活をしていた紀元前750年頃は

実が早く出来れば収穫し食料とする事が出来るので、

「木花知流比賣」は良い名だったとも思われます。

 

もし、「木花知流比賣」が本来の名であるならば、

花が散る季節に産まれたからとも考える事が出来そうです。

 

▽布波能母遲久奴須奴神

 

兄弟姉妹が存在したかは不明ですが、

系図を書いていて「布怒豆怒神─布帝耳神」は、

布波能母遲久奴須奴神の一族なのではないかと考察しました。

 

「天之」や「淸之」等の規則性から考えると、

可能性は大いに在り得ると思います。

 

もし、そうであるならば、「布波家」もしくは「布家」は、

出雲須賀地方の有力一族だったのか、もしくは、

九州から移動する際に一緒に移動して来たかの

どちらかだと思われます。

 

スサノオの勢力下で須賀地方の運営に携わっていて、

信頼されていたとも考えられます。

 

大国主神の話の前にも「織り機」が登場するので、

主に「布波家」もしくは「布家」が

糸・布関連を管理していたのかも知れません。