□三人のスサノオ
日本書紀第八段一書第四:
「一書に曰く
素戔嗚尊が状(かたち)無き所行(しょぎょう?)
故 諸(もろもろ)の神、千座置戸の科を以て
遂而(に)之(これ)を逐す
是時(このとき)素戔嗚尊は其の子五十猛神を帥(率いて)、
新羅國に於いて降って到り曾尸茂梨之處に居る
乃ち興して言い曰く
此の地、吾、居るを不欲(よくさ)ず
遂に埴土(しょくど)を以て舟を作り、
之(これ)に乗って東に渡る
出雲國簸川上の所に在る鳥上之峯に到る時、
彼の處に人を呑む大蛇有り
素戔嗚尊、乃ち天蠅斫之劒(あまのはえきるのけん?)を
以て彼の大蛇を斬る
蛇の尾を斬る時而(に)刃が缺(か)ける
即ち、之(これ)視るの而(に)擘(さ)き、
尾の中に一つの神の剣有り
素戔嗚尊曰く
吾 此れ私が以て用いる不可(べから)ず
乃ち五世孫天之葺根神を遣わして、
天に於いて上げ奉(たてまつ)る
此れ今、所謂(いわゆる)草薙劒なり
五十猛神が初めて天から降った之(この)時、
将に多くの樹の種を然し韓の地の下而(に)不殖(うえ)ず
盡(ことごと)く以て持ち歸(かえ)る
遂に筑紫自(より)始めて大八洲國之内凡(すべ)てに、
靑山に成り、不播(まか)ずに殖やす
五十猛命を称える所以(ゆえん)は、之(この)神功有りて為す
即ち、紀伊國の所に坐す大神是(これ)也」
一書第五:
「一書に曰く 素戔嗚尊曰く
韓鄕(からくに?)之嶋、是(これ)金と銀有り
若し吾の兒の使う所の御之(この)国の
浮宝(うきたから:舟)者(は:短語)不有(あら)ず
未だ是(これ)佳(よし)也
乃ち鬚髯(しゅぜん)を抜いて之(これ)散らし、即ち杉が成る
又 胸毛を抜いて散らし、是(これ)檜(ひのき)に成る
尻毛は是(これ)柀(まき)に成る
眉毛は是(これ)櫲樟(よしょう:クスノキ)と成る
已(すで)而(に)其の當(あたり)を定めて用いる
乃ち之(これ)称えて曰く
杉及び櫲樟、此の両(ふたつ)の樹者(は:短語)
浮宝(うきたから)を以て為す可(べ)き
宮の材の端の檜(ひのき)を以て為す可(べ)き
蒼生(そうせい)が奧津棄戸(つのおくのすてば)を
見て顕かな柀(まき)を以て為す可(べ)き
将に之(これ)具えて臥せる
八十噉(くらい?:位?)の木の種を夫れ須(もち)いる
時于(に)皆、能く生かして播く
素戔嗚尊之子、號(よびな)五十猛命と曰(い)う
妹大屋津姫命、次に枛津姫命
此れ凡て三神
亦 木の種は能く分けて布(し)く
即ち紀伊國に渡るに於いて奉(たてまつ)る
然(しか)るに後、素戔嗚尊、根の国に於いて者(は:短語)
遂に峯而(に)入り熊と成り居る
棄戸、此れ須多杯(すてば?)と云う
柀、此れ磨紀(まき)と云う」
▽五十猛神
☆読み
wikiなどを見ても「いそたける」や「いたける」と読ませているようですが、
本当にそう読むのだろうか?
古事記には登場しない為に、古事記の表記が参考に出来ませんし、
日本書紀でも「五十猛神」の読みの注記らしき記述がありません。
それなのに、なぜ、「いそたける」や「いたける」と
読む事が出来るのだろうか?
疑問しかありません。
「五十(い)」を近い所で確認出来そうなのは、
古事記の「名謂富登多多良伊須須岐比賣命、
亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣」と
日本書紀の「姬蹈鞴五十鈴姬命」の比較位です。
ただ、この場合、日本書紀の名が混同して書かれています。
日本書紀の名の前半「姬蹈鞴」は古事記の亦の名「比賣多多良」、
名の後半「五十鈴姬命」は古事記の本名「伊須須岐比賣命」から
合わせて作られた名だと言う事が分ります。
しかも、「伊須須岐比賣命」の「岐」が抜け落ちています。
これらから、「五十(い)」が「五十猛神」と関係性はありそうですが、
当時から「五十(い)」と使われていたのかは不明です。
次に「猛」に関しては、比較出来そうな対象が古事記になく、
「猛」を「たける」と読む事の判断が難しそうです。
ちなみに、日本書紀にある「猛田縣主」の「猛田」は、
どうやら、「たけだ」と読むようです。
読みのまとめとして、「五十(い)」は納得できる部分がありますが、
「猛」に関しては、記紀に読みの注記が無く、
正しいのか?と言う疑問を払拭するまでは至らないようです。
☆解読
「五十猛神」に関しての記述は古事記には記載されず、
日本書紀の第八段一書第四と五にあるのみです。
もし、本当に速須佐之男命の血筋であれば、
古事記にも記載があっても良さそうなのに書かれていません。
であれば、「速須佐之男命」の家系ではなく、「建速須佐之男命」か
「須佐之男命」の家系に関する人物なのだと思います。
日本書紀ではスサノオを「素戔嗚尊」と一括りしていますが、
本来は「建速須佐之男命」家、「速須佐之男命」家、「須佐之男命」家
それぞれの歴史が残されたのではないか?と考えています。
時代とともに、それらの重要な資料は災害などにより消失し、
主に「速須佐之男命」家の情報が多く残っただけなのでしょう。