国生み~大国の存在の記紀総括111-スサノオと五十猛神1- | 記紀以前の日本史を探す

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古事記や日本書紀、俗に偽書とされる歴史書、古代アジア各国の歴史書などから古代(紀元前1000年頃~)日本列島の真実の歴史を考えて行くブログです。

□三人のスサノオ

 

日本書紀第八段一書第四:

 

「一書に曰く 

 

素戔嗚尊が状(かたち)無き所行(しょぎょう?)
故 諸(もろもろ)の神、千座置戸の科を以て
遂而(に)之(これ)を逐す

是時(このとき)素戔嗚尊は其の子五十猛神を帥(率いて)、
新羅國に於いて降って到り曾尸茂梨之處に居る

乃ち興して言い曰く

此の地、吾、居るを不欲(よくさ)ず

遂に埴土(しょくど)を以て舟を作り、
之(これ)に乗って東に渡る

出雲國簸川上の所に在る鳥上之峯に到る時、
彼の處に人を呑む大蛇有り

素戔嗚尊、乃ち天蠅斫之劒(あまのはえきるのけん?)を
以て彼の大蛇を斬る

蛇の尾を斬る時而(に)刃が缺(か)ける

即ち、之(これ)視るの而(に)擘(さ)き、
尾の中に一つの神の剣有り

素戔嗚尊曰く

吾 此れ私が以て用いる不可(べから)ず

乃ち五世孫天之葺根神を遣わして、
天に於いて上げ奉(たてまつ)る

此れ今、所謂(いわゆる)草薙劒なり

五十猛神が初めて天から降った之(この)時、
将に多くの樹の種を然し韓の地の下而(に)不殖(うえ)ず
盡(ことごと)く以て持ち歸(かえ)る

遂に筑紫自(より)始めて大八洲國之内凡(すべ)てに、
靑山に成り、不播(まか)ずに殖やす

五十猛命を称える所以(ゆえん)は、之(この)神功有りて為す

即ち、紀伊國の所に坐す大神是(これ)也」

 

一書第五:

 

「一書に曰く 素戔嗚尊曰く

韓鄕(からくに?)之嶋、是(これ)金と銀有り

若し吾の兒の使う所の御之(この)国の
浮宝(うきたから:舟)者(は:短語)不有(あら)ず

未だ是(これ)佳(よし)也

乃ち鬚髯(しゅぜん)を抜いて之(これ)散らし、即ち杉が成る

又 胸毛を抜いて散らし、是(これ)檜(ひのき)に成る

尻毛は是(これ)柀(まき)に成る

眉毛は是(これ)櫲樟(よしょう:クスノキ)と成る

已(すで)而(に)其の當(あたり)を定めて用いる

乃ち之(これ)称えて曰く

杉及び櫲樟、此の両(ふたつ)の樹者(は:短語)
浮宝(うきたから)を以て為す可(べ)き

宮の材の端の檜(ひのき)を以て為す可(べ)き

蒼生(そうせい)が奧津棄戸(つのおくのすてば)を
見て顕かな柀(まき)を以て為す可(べ)き

将に之(これ)具えて臥せる

八十噉(くらい?:位?)の木の種を夫れ須(もち)いる
時于(に)皆、能く生かして播く

素戔嗚尊之子、號(よびな)五十猛命と曰(い)う
妹大屋津姫命、次に枛津姫命

此れ凡て三神

亦 木の種は能く分けて布(し)く

即ち紀伊國に渡るに於いて奉(たてまつ)る

然(しか)るに後、素戔嗚尊、根の国に於いて者(は:短語)
遂に峯而(に)入り熊と成り居る

棄戸、此れ須多杯(すてば?)と云う

柀、此れ磨紀(まき)と云う」

 

▽五十猛神

 

☆読み

 

wikiなどを見ても「いそたける」や「いたける」と読ませているようですが、

本当にそう読むのだろうか?

 

古事記には登場しない為に、古事記の表記が参考に出来ませんし、

日本書紀でも「五十猛神」の読みの注記らしき記述がありません。

 

それなのに、なぜ、「いそたける」や「いたける」と

読む事が出来るのだろうか?

 

疑問しかありません。

 

「五十(い)」を近い所で確認出来そうなのは、

古事記の「名謂富登多多良伊須須岐比賣命、

亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣」と

日本書紀の「姬蹈鞴五十鈴姬命」の比較位です。

 

ただ、この場合、日本書紀の名が混同して書かれています。

 

日本書紀の名の前半「姬蹈鞴」は古事記の亦の名「比賣多多良」、

名の後半「五十鈴姬命」は古事記の本名「伊須須岐比賣命」から

合わせて作られた名だと言う事が分ります。

 

しかも、「伊須須岐比賣命」の「岐」が抜け落ちています。

 

これらから、「五十(い)」が「五十猛神」と関係性はありそうですが、

当時から「五十(い)」と使われていたのかは不明です。

 

次に「猛」に関しては、比較出来そうな対象が古事記になく、

「猛」を「たける」と読む事の判断が難しそうです。

 

ちなみに、日本書紀にある「田縣主」の「田」は、

どうやら、「たけだ」と読むようです。

 

読みのまとめとして、「五十(い)」は納得できる部分がありますが、

「猛」に関しては、記紀に読みの注記が無く、

正しいのか?と言う疑問を払拭するまでは至らないようです。

 

☆解読

 

「五十猛神」に関しての記述は古事記には記載されず、

日本書紀の第八段一書第四と五にあるのみです。

 

もし、本当に速須佐之男命の血筋であれば、

古事記にも記載があっても良さそうなのに書かれていません。

 

であれば、「速須佐之男命」の家系ではなく、「建速須佐之男命」か

「須佐之男命」の家系に関する人物なのだと思います。

 

日本書紀ではスサノオを「素戔嗚尊」と一括りしていますが、

本来は「建速須佐之男命」家、「速須佐之男命」家、「須佐之男命」家

それぞれの歴史が残されたのではないか?と考えています。

 

時代とともに、それらの重要な資料は災害などにより消失し、

主に「速須佐之男命」家の情報が多く残っただけなのでしょう。