国生み~大国の存在の記紀総括109-スサノオと出雲7- | 記紀以前の日本史を探す

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古事記や日本書紀、俗に偽書とされる歴史書、古代アジア各国の歴史書などから古代(紀元前1000年頃~)日本列島の真実の歴史を考えて行くブログです。

□宮の建設

 

古事記:

 

「故 是を以て其の速須佐之男命 
 宮作る可(べ)き之(この)地を出雲国に求めて造る

 爾(なんじ)須賀(すが)の地而(に)
 到り坐し之(これ)詔(みことのり)す

 吾 此の地に来て、我の心須須賀賀斯(すがすがし?)く
 其の地而(に)宮を作り坐す

 故 其の地於(お)今者(は:短語)須賀と云う也

 茲(ここ)に大神が初めて須賀宮作る之(この)時
 其の地自ら雲立ち騰(あ)がり

 爾(なんじ)御歌作り、其の歌曰く

 夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾
 やくもたつ   いずもやへがき  つまごみに
 八雲立つ    出雲八重垣   妻籠みに

 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
 やへがきつくる   そのやへがきを
 八重垣作る     その八重垣を

 是於(これお)其の足名椎神を喚(よ)び告げて言う

 汝者(は:短語)我の宮の頭(かしら)に任ず

 且つ稻田宮主須賀之八耳神の名の號を負う

 故而(に)其の櫛名田比賣を以て、
 久美度邇(くみどに:格子戸)起ち
 生まれる所の神名八嶋士奴美神と謂う

 又 大山津見神之女の名神大市比賣娶って生む子大年神、

 次に宇迦之御魂神

 

 兄八嶋士奴美神、大山津見神之女の名木花知流比賣
 娶って子、布波能母遲久奴須奴神生む

 此の神淤迦美神之女の名日河比賣娶って子、

 深淵之水夜禮花神生む

 此の神天之都度閇知泥神娶って子、淤美豆奴神生む

 此の神布怒豆怒神之女の名布帝耳神娶って子、天之冬衣神生む

 此の神刺國大神之女の名刺國若比賣娶って子、大國主神生む

 亦名大穴牟遲神と謂う

 亦名葦原色許男神と謂う

 亦名八千矛神と謂う

 亦名宇都志國玉神と謂う

 幷(あわ)せて五名有り」

 

日本書紀第八段本文:

 

「吾 私が敢えて安らかに何(いず)れ乎(お)以って
 乃ち天の神に於いて上げ獻(たてまつる)也

 然るに後、将に婚(えんぐみ?:妻)の處に行くのを覓(もと)める

 遂に出雲の清い地(すが)に到る

 乃ち言い曰く

 吾の心之(これ)清清しく(此れ今、此の地清と呼ぶと曰(い)う)
 彼の處に於いて宮を建てる

 或は、武素戔嗚尊之(これ)歌う時曰く

 夜句茂多兔(やくもたつ:八雲立つ)
 伊弩毛夜覇餓岐(いずもやえがき:出雲八重垣)
 兔摩語昧爾(つまごみに:妻籠に)
 夜覇餓枳都倶盧(やえがきつくる:八重垣作る)
 贈廼夜覇餓岐廻(そのやえがきを:その八重垣を)

 と云う

 乃ち相と與(とも)に合い遘(まみ)えて
 而(すなわ)ち兒の大己貴神を生む

 因って之(これ)勅(みことのり)して曰く

 吾の兒の宮首(みやかしら?)者(は:短語)
 即ち脚摩乳と手摩乳也

 故、二神に於いて號(よびな)を賜り稻田宮主神と曰(い)う

 已(すで)而(に)素戔嗚尊、根の国に於いて就いて遂げる」

 

一書第一:

 

「一書に曰く

 素戔嗚尊、天自(より)降り而(すなわ)ち出雲簸之川上に於いて到る

 則(すなわ)ち稻田宮主簀狹之八箇耳の
 女の子の號(よびな)稻田媛を見る

 乃ち奇御戸(くみど:格子戸)に於いて起ちて為す
 而(すなわ)ち兒が生まれて
 號(よびな)淸之湯山主三名狹漏彦八嶋篠という

 一つに淸之繋名坂輕彦八嶋手命と云う

 又 淸之湯山主三名狹漏彦八嶋野と云う

 此の神の五世孫、即ち大國主神という

 篠、此れ小竹也、此れ斯奴(しぬ?)と云う」

 

一書第二:

 

「是後(このあと)稻田宮主簀狹之八箇耳の生む兒
 奇稻田媛の眞髮を以て觸(さわ)り

 出雲國簸川上に於いて遷し置く

 而(なんじ)長く養い然る後、素戔嗚尊、
 妃の所而(に)生まれた兒を以て之(これ)六世孫と為す

 是(これ)大己貴命と曰(い)う

 大己貴、此れ於褒婀娜武智(おほあなむち)と云う」

 

一書第六:

 

「一書に曰く

 大國主神、亦の名大物主神、亦の號(よびな)國作大己貴命
 亦、葦原醜男と曰(い)う、亦、八千戈神と曰(い)う、
 亦、大國玉神と曰(い)う、亦、顯國玉神と曰(い)う

 其の子凡て一百八十一神有り」

 

▽須賀宮と稻田宮

 

古事記には下記の様に書かれています。

 

「茲(ここ)に大神が初めて須賀宮作る之(この)時
 其の地自ら雲立ち騰(あ)がり」

 

ここには、「須賀宮」と書いてありますが、

下記の文では「稻田宮」となっています。

 

「是於(これお)其の足名椎神を喚(よ)び告げて言う
 汝者(は:短語)我の宮の頭(かしら)に任ず
 且つ稻田宮主須賀之八耳神の名の號を負う」

 

「速須佐之男命」が任じたのかは不明ですが、

「足名椎神」を「稻田宮主」に任命しています。

 

古事記にのみ「須賀宮」が登場します。

 

「須賀宮」とは何なのか?

 

なぜ、「須賀宮」とは書かずに「稻田宮」としたのか?

 

それに、任命されたのは「頭」であって「主(あるじ)」ではない、

なのに、「稻田宮主」は「稻田宮頭」とするべきではないのか?

 

「主(あるじ)」はというと「速須佐之男命」もしくは

「建速須佐之男命」のどちらかだと思われます。

 

また、「稻田宮主須賀之八耳神」の名が記紀では異なっています。

 

古事記:「稻田宮主須賀之八耳神」

 

日本書紀:「稻田宮主簀狹之八箇耳」

 

大きく異なるのは「須賀(「すが」もしくは「すか」)」と「簀狹(すさ)」です。

 

「賀」→「狹」に変化した経緯は何だろうか?

 

「八耳神」の子孫の代に何か問題があって

移転を余儀なくされた為に名も変化したのかも知れません。

 

▽歌の作者

 

古事記:

 

「夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾
 やくもたつ   いずもやへがき  つまごみに
 八雲立つ    出雲八重垣   妻籠みに

 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
 やへがきつくる   そのやへがきを
 八重垣作る     その八重垣を」

 

日本書紀第八段本文:

 

「夜句茂多兔(やくもたつ:八雲立つ)
 伊弩毛夜覇餓岐(いずもやえがき:出雲八重垣)
 兔摩語昧爾(つまごみに:妻籠に)
 夜覇餓枳都倶盧(やえがきつくる:八重垣作る)
 贈廼夜覇餓岐廻(そのやえがきを:その八重垣を)」

 

この歌ですが、記紀で作者が異なります。

 

古事記では「速須佐之男命」、日本書紀では「武素戔嗚尊」と

記載されていて、どちらが正しいのか?

 

日本書紀の「武素戔嗚尊」を正しく変換すると、

「建須佐之男命」と改める事が出来ますが、

古事記では「建速須佐之男命」とはありますが、

「建須佐之男命」は登場しません。

 

そこから、日本書紀を考える時、

「素戔嗚尊」=「速須佐之男命」とした方が良いのかも知れません。

 

本題に戻すと、「速須佐之男命」と「建速須佐之男命」の

どちらが詠んだ歌なのか?

 

以前にも書きましたが、「スサノオ」にはランクがあり、

「建速須佐之男命」ー「速須佐之男命」ー「須佐之男命」となります。

 

もし、日本書紀の記述が正しいとするならば、

古事記はなぜ、「速須佐之男命」と記したのか?

 

一番考えられそうなのは、「速須佐之男命」の時に歌を作り、

発表したのが「建速須佐之男命」に昇格した時だったと

解釈する事は出来そうです。

 

しかし、記紀の所々に不可解な言葉や文章が多くあり、

推測の域を出そうもありません。

 

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