□宮の建設
古事記:
「故 是を以て其の速須佐之男命
宮作る可(べ)き之(この)地を出雲国に求めて造る
爾(なんじ)須賀(すが)の地而(に)
到り坐し之(これ)詔(みことのり)す
吾 此の地に来て、我の心須須賀賀斯(すがすがし?)く
其の地而(に)宮を作り坐す
故 其の地於(お)今者(は:短語)須賀と云う也
茲(ここ)に大神が初めて須賀宮作る之(この)時
其の地自ら雲立ち騰(あ)がり
爾(なんじ)御歌作り、其の歌曰く
夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾
やくもたつ いずもやへがき つまごみに
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに
夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
やへがきつくる そのやへがきを
八重垣作る その八重垣を
是於(これお)其の足名椎神を喚(よ)び告げて言う
汝者(は:短語)我の宮の頭(かしら)に任ず
且つ稻田宮主須賀之八耳神の名の號を負う
故而(に)其の櫛名田比賣を以て、
久美度邇(くみどに:格子戸)起ち
生まれる所の神名八嶋士奴美神と謂う
又 大山津見神之女の名神大市比賣娶って生む子大年神、
次に宇迦之御魂神
兄八嶋士奴美神、大山津見神之女の名木花知流比賣
娶って子、布波能母遲久奴須奴神生む
此の神淤迦美神之女の名日河比賣娶って子、
深淵之水夜禮花神生む
此の神天之都度閇知泥神娶って子、淤美豆奴神生む
此の神布怒豆怒神之女の名布帝耳神娶って子、天之冬衣神生む
此の神刺國大神之女の名刺國若比賣娶って子、大國主神生む
亦名大穴牟遲神と謂う
亦名葦原色許男神と謂う
亦名八千矛神と謂う
亦名宇都志國玉神と謂う
幷(あわ)せて五名有り」
日本書紀第八段本文:
「吾 私が敢えて安らかに何(いず)れ乎(お)以って
乃ち天の神に於いて上げ獻(たてまつる)也
然るに後、将に婚(えんぐみ?:妻)の處に行くのを覓(もと)める
遂に出雲の清い地(すが)に到る
乃ち言い曰く
吾の心之(これ)清清しく(此れ今、此の地清と呼ぶと曰(い)う)
彼の處に於いて宮を建てる
或は、武素戔嗚尊之(これ)歌う時曰く
夜句茂多兔(やくもたつ:八雲立つ)
伊弩毛夜覇餓岐(いずもやえがき:出雲八重垣)
兔摩語昧爾(つまごみに:妻籠に)
夜覇餓枳都倶盧(やえがきつくる:八重垣作る)
贈廼夜覇餓岐廻(そのやえがきを:その八重垣を)
と云う
乃ち相と與(とも)に合い遘(まみ)えて
而(すなわ)ち兒の大己貴神を生む
因って之(これ)勅(みことのり)して曰く
吾の兒の宮首(みやかしら?)者(は:短語)
即ち脚摩乳と手摩乳也
故、二神に於いて號(よびな)を賜り稻田宮主神と曰(い)う
已(すで)而(に)素戔嗚尊、根の国に於いて就いて遂げる」
一書第一:
「一書に曰く
素戔嗚尊、天自(より)降り而(すなわ)ち出雲簸之川上に於いて到る
則(すなわ)ち稻田宮主簀狹之八箇耳の
女の子の號(よびな)稻田媛を見る
乃ち奇御戸(くみど:格子戸)に於いて起ちて為す
而(すなわ)ち兒が生まれて
號(よびな)淸之湯山主三名狹漏彦八嶋篠という
一つに淸之繋名坂輕彦八嶋手命と云う
又 淸之湯山主三名狹漏彦八嶋野と云う
此の神の五世孫、即ち大國主神という
篠、此れ小竹也、此れ斯奴(しぬ?)と云う」
一書第二:
「是後(このあと)稻田宮主簀狹之八箇耳の生む兒
奇稻田媛の眞髮を以て觸(さわ)り
出雲國簸川上に於いて遷し置く
而(なんじ)長く養い然る後、素戔嗚尊、
妃の所而(に)生まれた兒を以て之(これ)六世孫と為す
是(これ)大己貴命と曰(い)う
大己貴、此れ於褒婀娜武智(おほあなむち)と云う」
一書第六:
「一書に曰く
大國主神、亦の名大物主神、亦の號(よびな)國作大己貴命
亦、葦原醜男と曰(い)う、亦、八千戈神と曰(い)う、
亦、大國玉神と曰(い)う、亦、顯國玉神と曰(い)う
其の子凡て一百八十一神有り」
▽須賀宮と稻田宮
古事記には下記の様に書かれています。
「茲(ここ)に大神が初めて須賀宮作る之(この)時
其の地自ら雲立ち騰(あ)がり」
ここには、「須賀宮」と書いてありますが、
下記の文では「稻田宮」となっています。
「是於(これお)其の足名椎神を喚(よ)び告げて言う
汝者(は:短語)我の宮の頭(かしら)に任ず
且つ稻田宮主須賀之八耳神の名の號を負う」
「速須佐之男命」が任じたのかは不明ですが、
「足名椎神」を「稻田宮主」に任命しています。
古事記にのみ「須賀宮」が登場します。
「須賀宮」とは何なのか?
なぜ、「須賀宮」とは書かずに「稻田宮」としたのか?
それに、任命されたのは「頭」であって「主(あるじ)」ではない、
なのに、「稻田宮主」は「稻田宮頭」とするべきではないのか?
「主(あるじ)」はというと「速須佐之男命」もしくは
「建速須佐之男命」のどちらかだと思われます。
また、「稻田宮主須賀之八耳神」の名が記紀では異なっています。
古事記:「稻田宮主須賀之八耳神」
日本書紀:「稻田宮主簀狹之八箇耳」
大きく異なるのは「須賀(「すが」もしくは「すか」)」と「簀狹(すさ)」です。
「賀」→「狹」に変化した経緯は何だろうか?
「八耳神」の子孫の代に何か問題があって
移転を余儀なくされた為に名も変化したのかも知れません。
▽歌の作者
古事記:
「夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾
やくもたつ いずもやへがき つまごみに
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに
夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
やへがきつくる そのやへがきを
八重垣作る その八重垣を」
日本書紀第八段本文:
「夜句茂多兔(やくもたつ:八雲立つ)
伊弩毛夜覇餓岐(いずもやえがき:出雲八重垣)
兔摩語昧爾(つまごみに:妻籠に)
夜覇餓枳都倶盧(やえがきつくる:八重垣作る)
贈廼夜覇餓岐廻(そのやえがきを:その八重垣を)」
この歌ですが、記紀で作者が異なります。
古事記では「速須佐之男命」、日本書紀では「武素戔嗚尊」と
記載されていて、どちらが正しいのか?
日本書紀の「武素戔嗚尊」を正しく変換すると、
「建須佐之男命」と改める事が出来ますが、
古事記では「建速須佐之男命」とはありますが、
「建須佐之男命」は登場しません。
そこから、日本書紀を考える時、
「素戔嗚尊」=「速須佐之男命」とした方が良いのかも知れません。
本題に戻すと、「速須佐之男命」と「建速須佐之男命」の
どちらが詠んだ歌なのか?
以前にも書きましたが、「スサノオ」にはランクがあり、
「建速須佐之男命」ー「速須佐之男命」ー「須佐之男命」となります。
もし、日本書紀の記述が正しいとするならば、
古事記はなぜ、「速須佐之男命」と記したのか?
一番考えられそうなのは、「速須佐之男命」の時に歌を作り、
発表したのが「建速須佐之男命」に昇格した時だったと
解釈する事は出来そうです。
しかし、記紀の所々に不可解な言葉や文章が多くあり、
推測の域を出そうもありません。
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