▽須佐之男命と速須佐之男命
以前から言っている通り、「須佐之男命」と「速須佐之男命」は
同一人物ではなく別の人物だと考えています。
出雲國之肥河の上に到着したのが「須佐之男命」で、
「都牟刈之大刀」入手したのが「速須佐之男命」となると、
「須佐之男命」は先遣隊として役目として情報を収集し、
「速須佐之男命」の本隊が到着してからは、
収集した情報を基にして領地経営したと受け取る事が出来ます。
日本書紀は「素戔嗚」とだけしか表記していませんが、
本来は古事記の表記で書かれていたのかも知れません。
もし、「速須佐之男命」が出雲の地に領土を持ったとするならば、
誰から与えて貰ったのだろうか?
それとも、侵略して奪ったのだろうか?
であるなら、「出雲國風土記」に「神」と付く事が無いので、
功績によって領地を獲得したのだと思われます。
▽伊呂勢
古事記にのみ記載されている重要箇所です。
「吾者(は:短語)天照大御神之伊呂勢(いろせ)の者也
故 今、天から自ら降り坐す也」
「高志之八俣遠呂智」と同様の考え方をすると、
「伊呂勢」は「伊(聖職者)」+「呂(並んで続く)」+「勢(勢力)」と
解釈する事が出来、「聖職者と天照大御神を繋ぐ人材派遣」の事を
指しているようにも受け取る事が出来ます。
「速須佐之男命」と「天照大御神」の関係が良好だからこそ、
「天照大御神之伊呂勢(いろせ)」と言う肩書になったのだろうと
推測しています。
ただ、日本書紀にはこの記事がスルーされているのが気になります。
▽御美豆良
古事記:
「乃ち湯津の爪と櫛於(お)取り成して
其の童女而(に)御美豆良(みづら)を刺す」
日本書紀本文:
「故 素戔嗚尊は奇稻田姫を立たせ湯津爪櫛に化かすと為す
而(なんじ)御髻(みずら)於(お)挿す」
日本書紀では「奇稻田姫」と名を記載しますが、
古事記では「童女」とあるだけで名は分りません。
なぜ、古事記は「櫛名田比賣」と書かなかったのか?
どうも、全体の文章を改めて見ると、
「女名謂櫛名田比賣」とはあるが「童女」=「櫛名田比賣」と
するには不自然な気がします。
それに、「兒」や「童女」ではなく「女」としか書かないのは、
別の意味があるのではないかと考えています。
元々、「童女」=「櫛名田比賣」ではないからこそ、
「童女」と言う表現になったのだと推測出来ます。
もし、逆に「童女」=「櫛名田比賣」であるならば、
名が登場しているのだから「童女」ではなく、
「其の櫛名田比賣而(に)御美豆良(みづら)を刺す」と
記載すれば全然問題がなかった筈です。
▽酒
古事記:
「汝等、八つの鹽(しお)を折って之(これ)醸(かも)し酒にす
亦、垣を廻りて作る
其の垣に八門於(お)作る
毎門に八つの佐受岐(さずき)を結び
其の佐受岐(さずき)毎而(に)酒船を置き
毎船而(に)其の八つの鹽(しお)を折った酒を盛り待つ
故 此の如く而(に)備(つぶさ)に設けた之(この)時
随うを告げて待つ
其の八俣遠呂智信(まこと)の如く来て言う
乃ち船毎に己の頭を垂らして入れて其の酒を飲む
是於(これお)飲んで酔って留まり伏せて寝る」
日本書紀本文:
「乃ち脚摩乳と手摩乳を使って八つの醞醸(うんじょう)の酒と
幷(あわ)せて假(かり)の庪(棚?床?)を作り
八つの間に各(おのおの)槽口(ふなくち)を一つ置き
而(すなわ)ち酒を盛るを以て之(これ)待つ也」
「酒を得るに及ぶに至り、
頭が各(おのおの)一つの槽(ふね)を飲み
而(すなわ)ち醉(よ)って睡(ねむる)時」
一書第二:
「汝 八つの甕(かめ)に醸した酒と
衆(もろもろ)の菓を以てるが可(よ)い
吾 當に汝の為に蛇を殺す
二神、教えに隨い酒を設ける
必ず彼の大蛇は産む時に至り、戸に當(あたり)将に兒を呑む
素戔嗚尊、蛇に勅(みことのり)して曰く
汝、是(これ)之(この)神乎(お)畏れて敢えて
不饗(もてなさ)ずに可(よ)い
乃ち八つの甕の酒を以て、口毎に沃(そそ)ぎ入れる
其の蛇而(に)酒を飲ませて睡(ねむ)らす」
一書第三:
「乃ち醸した酒に毒を以て之(これ)飲ますと計る
蛇、而(すなわ)ち醉(よ)って睡(ねむる)」
△共通項
記紀の文の共通項では「酒を造り酔わせて眠らす」となります。
しかし、「酒」は短期間で造れるものではないので、
「酒が出来上がった時期」に「八俣遠呂智」の移動があったのでしょう。
△蛇と酒の関係
そもそも、蛇は酒に弱いのだろうか?
調べても関連した記事が見つかりませんでしたので、
「蛇」に「酒」を与えてどのようになるのか?の
検証などはされていないようです。
また、TVで蛇を除去する映像を見ても、棒などで
袋に追いやる方法を目にするくらいで「酒」は使用していません。
もし、本当に蛇が「酒」に酔って寝てしまうのだとするならば、
罠として「酒」を置き寝ている時に除去すれば安全なはずですし、
古代から行っていれば当たり前でも不思議ではありません。
しかし、現代においてそのような手法は取っていません。
つまり、日本書紀の「蛇」を酒を使って眠らすと言うのは、
やはり、「人間」に対して行った方法ではないか?と改めて感じます。
△鹽と酒
古事記:
「八つの鹽(しお)を折って之(これ)醸(かも)し酒にす
亦、垣を廻りて作る」
「其の佐受岐(さずき)毎而(に)酒船を置き
毎船而(に)其の八つの鹽(しお)を折った酒を盛り待つ」
「鹽(しお)」に関して記載があるのは古事記だけで、
日本書紀には「鹽(しお)」の記述がありません。
日本書紀には「八つの醞醸(うんじょう)の酒」や
「八つの甕(かめ)に醸した酒」とは書かれているだけです。
古事記と日本書紀の「酒」が同一物であるのならば、
「鹽(しお)」は重要な意味があるので、
削除してしまっては何の意味もなくなってしまいます。
もし、古事記と日本書紀の「酒」が違う物であるならば、
違うのですから当然、同じ表現方法でなくても良いわけです。
これらから、古事記と日本書紀の状況は異なっていて、
同一の場面を表していない可能性がありそうです。
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