国生み~大国の存在の記紀総括105-スサノオと出雲3- | 記紀以前の日本史を探す

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古事記や日本書紀、俗に偽書とされる歴史書、古代アジア各国の歴史書などから古代(紀元前1000年頃~)日本列島の真実の歴史を考えて行くブログです。

△表記について

 

古事記:高志之八俣遠呂智

 

日本書紀:八岐大蛇

 

「俣」と「岐」の違いを考えて行きます。

 

「俣」:「俟(まつ)-待つ、期待して待つの意味」の字形を変えて、

    変化を待つ、すなわち、「分かれている所」を意味する」

 

「岐」:「「山」の象形と「竹や木の枝を手にする」象形

    (「枝を払う・わける」の意味)から、「山のえだ道・分かれ道」」

 

参照1:「俣」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習
https://okjiten.jp/kanji2367.html

 

参照2:「岐」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習
https://okjiten.jp/kanji1423.html

 

上記から「俣」は「道や河川の様な大きな分かれ道」、

「岐」は「山道内の枝分かれした分かれ道」を指しているとすると、

「八俣遠呂智」は「遠くから並んで続く分かれ道」、

「八岐大蛇」は「山道の枝分かれした地域に蛇が生息していた」と

各々解釈する事が出来そうです。

 

ちなみに、「遠呂智」の当て字にも意味があると考えています。

 

「遠」:「「立ち止まる足の象形と十字路の象形」(「行く」の意味)と

    「足跡の象形と玉の象形と身体にまつわる衣服のえりもとの

    象形」(衣服の中に玉を入れ、旅立ちの安全を祈るさま(様)から

    、「とおざかる」の意味)から、「とおくへ行く」を意味する」

 

※WIKIでは「白川説」として「死者の服の襟を開け玉を胸元に

 置いた様で死出の旅立ち」を紹介しています。

 

 どちらが正しいかは分かりません。

 

「呂」:「ならんで続く」

 

「智」:「2つの神器(矢・干)と祝詞(口)によって祝祷を行い、

    神に認知されて神意を授かることを「智」」

 

上記から考察すると、

「神意を授かりたい集団が遠くにある目的地まで

 ならんで歩いて続いている」事を指すようにも思えます。

 

そうであれば、開けた渓谷などを歩いていたか、

川を船で航行していたかの可能性が高そうです。

 

参照3:「遠」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習
https://okjiten.jp/kanji212.html

 

参照4:【文字】「智」と「知」の違い。: 古啓念慮 ~文字・書のはなし~
http://tenkokuya-kuku.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-277a.html

 

▽読み

 

古事記では「高志之八俣遠呂智【此三字以音】」と

「音読み指定」されています。

 

呉音:「おんろち」、漢音:「えんりょち」

 

しかし、日本書紀で読みの注記を探しても見つかりません。

 

日本書紀は古事記とは違って重要な言葉でも、

注記がある場合と無い場合があります。

 

「伊弉諾」や「素戔嗚」は注記がありませんが、

「大日孁貴」や「赤酸醤」には注記が記載されています。

 

この違いは何だろうか?

 

古事記を参考にして編纂されている日本書紀だからこそ、

書かなくても理解してくれると思ったからか、

それとも、違う読みの注記だから削除したのか。

 

もし、「八岐大蛇」が本来「やまたのおろち」と読まないのならば、

「大蛇」には別の意味が隠されている様に感じます。

 

▽大山津見神之子

 

古事記:足名椎、手名椎、櫛名田比賣

 

日本書紀第八段本文:脚摩乳、手摩乳、奇稻田姫

 

一書第一:稻田宮主簀狹之八箇耳、稻田媛

 

一書第二:脚摩手摩、稻田宮主簀狹之八箇耳

 

古事記の「足名椎(あしなつち)」、「手名椎(てなつち)」、

「櫛名田比賣(くしなだひめ)」と読めるのに対して、

日本書紀では「脚摩乳(あしまちち)」、「手摩乳(てまちち)」、

「奇稻田姫(くしいなだひめ)」と読みが一致しません。

 

なにより、一書第二の「脚摩手摩」は

本文の「脚摩乳」と「手摩乳」を繋げただけに見えます。

 

読みの注記は記紀共に書かれていないので、

上記に書いた読みが正しいかは不明です。

 

しかし、「名椎(なつち)」が「摩乳(まちち)」に、

「名田(なだ)」が「稻田(いなだ)」に変化したのは疑問が残ります。

 

他にも「櫛」と「奇」では意味が異なっています。

 

「なつ」が「まち」に変化した事から、江戸時代などで英語の発音を

聞き間違えて誤解釈した例に似ていると感じるので、

伝え聞きや古事記とは違う部族の情報だからなのかも知れません。

 

▽八稚女

 

古事記:「我の女者(は:短語)自ら八稚女(やちめ?)の本と在り」

 

日本書紀第八段本文:「吾の八箇有る少女の兒」

 

八稚女とは何だろうか?

 

漢字から推測すると、「稚(おさない)八人の女」と受け取れますが、

日本書紀本文では「八箇」とおかしな表記をしています。

 

「箇」を調べると「古くは竹を数える言葉として用いていた」ようです。

 

しかし、少女は「竹」ではありませんし、

人に「箇」を使用するのは不自然です。

 

また、古事記で「稚」の漢字を使用しているのも違和感があります。

 

原文を調べると「稚」を使用しているのは「二カ所」しかありません。

 

やはり、ここでも使い分けている可能性が高そうです。

 

あと、「八箇有る少女」としているのは、

もしかすると、「竹製品の少女像」ではないかと推測しています。

 

かぐや姫も竹から生まれたと言われていますが、

民芸品の様な「竹製品」として「少女」を形作ったとも考えられます。

 

どちらにしても情報不足となりそうです。

 

▽「毎年来るもの」と蛇

 

古事記と日本書紀第八段本文では「毎年」と記載しています。

 

「毎年」来て、住民が被害を受けると言う条件を考えると、

「土砂崩れ」、「雨などにより水害」を想像する事が出来ます。

 

そして、日本書紀が「蛇」と揶揄するのは、

「遠呂智」の当て字の解釈で仮定すると、

「巡礼者」もしくは「侵略者」の可能性があるように思えます。

 

特に日本書紀では「蛇」を殺すとの記載もあり、

古事記と日本書紀の情報源は違うと思いますが、

何かしらの問題になっていたのだと考えています。

 

もし、「侵略者」の様な存在を「蛇」と表現したのならば、

畑や農地を荒らされる事で泣くというのは納得出来ます。

 

しかし、自然災害でも同じような状況になるので、

どちらが正しいのかは不明ですが、

「酒を飲ます」の表現から「人間」相手なのかも知れません。

 

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