先日の日経新聞に、Twitterのアカウントが一つきりという人は40%に満たないという記事が載っていた。
多くの若者が複数のアカウントを作成し、相手によって使い分けていると。
ちょっとびっくりした。
複数のアカウントを使い分けていることに驚いたのではない。
「若い世代は」と、若者に限定していたことにである。
その記事は高校生に対するアンケート結果を載せていて、
一つのアカだけの人は39.7%
二つが27.3%、
三つが14.3%
四つ以上が14.7%
そういう結果だった。
高校生限定アンケートというのも???である。
若い世代って10代の未成年の話なのか?
そして六つのアカウントを使い分ける二十歳の女性の話を載せていた。
私は若くはない。
だけどアカウントは四つある。
主に稼働しているのは二つ。
三つめはほとんど閲覧のみ。これは主に新選組や幕末史関係の歴史家さんをフォローしている。
四つめはリア友用のアカでこれは今はもうただあるだけ。
母友にTwitterやってるかと聞かれたときのために作っておいたやつなのだけど、結局凄く親しくなった人とはLINEでいろいろ話すようになって必要なくなった。
陰陽師専用アカにしようかなと思ってtweet全部消したけど、既に陰陽師開始したときに紐づけたアカから変更するやり方がわからず、失敗して万が一ゲームのデータが消えたら死ぬので、今はもう置いてあるだけ。
新聞には識者の意見として「裏アカ」は日本独特の文化であり、裏アカだから何を言ってもいいわけではなく、突き止めようとしたら正体は突き止められるのだと書かれていた。
もちろん、そういういわゆる「捨てアカ」を使って人を非難したり執拗に攻撃したりする人がいるのも知っている。
それはTwitterに限ったことではない。
以前あったAmebaのなうやピグで捨て垢で嫌がらせをされたことがあるから。
でも、裏アカだから何を言ってもいい、人を傷つけるようなことを言っても正体ばれないからいいよねなんて、そんなことを本気で思っている人、私はそんなにたくさんいるとは思わない。
少なくとも私のフォローしている皆さんはみんな対人関係においてとても常識的な発言をする方々だ。
しかしながら、フォローしている相手に対して、たとえばとうらぶつながりでフォローしてるのだから他のコンテンツのtweetはするなとか、絵を見たいんだからリアの生活のtweetはするなとかいう感じで、相手に対してアカを分けろと思っている人(「マナー」という言葉を使って相手に強要する人)がこの世の中には一定数いることも事実。
そういうことをいう相手って不寛容なわけで、そういう人と摩擦が起こっても相手が不寛容なだけに和解はない。
そんな無用で不毛な摩擦を避けるためにアカを分けている人が実際は結構多いんじゃないだろうか。
Twitterの世界は、自分の発言がどこまで聞こえてしまうかわからないという怖さがある。
私は人付き合いがあまりうまくないので、少しずつ人と歩み寄りたい。
でも、人付き合いが上手くないだけで、自分の意見はわりとはっきりある。
そのくせ阿呆なので、全方面に気を遣った発言が出来ていないことを自覚している。
だからアカを分けざるを得ないというのもある。
Twitterで意見を言うと、人によっては個人的な発言でしかないtweetに過度に(当社比)不快感を覚えたりする方々もいる。
避けようがないよ見えちゃったよ!みたいな方々がいるんでしょうね。
だからかな、ぷらいべったー、最近皆さん使ってますね。
私はブログで自分の正直な思いを吐き出しているけど、ブログってもう古いものになりつつあるのかな。
アカウントをいろいろ使い分けるのは、今の日本の社会だとしょうがないのかもしれないとも思う。
思うことを思うように言いづらい空気を感じる。
それこそが今よく指摘される「同調圧力」ってやつ。
でも、そんな「同調圧力」を過度に感じてしまっている人もいる。
どういう原因でそう感じるようになったのか、私にはよくわからないけれど。
だけど同調圧力を過度に感じるのはよくない傾向だと思う。
いじめに加担はしないが黙認するのも、集団心理に安易に乗ってハロウィンで異常に騒ぐのも「同調圧力」に対してめちゃくちゃ心が弱いからではないだろうか?
自分の意見を持つことは悪いことじゃない。
周りがいいといっても、自分がそう思わなければ思う必要はない。
もちろん、躍起になって否定する必要もない。
「そういう意見もあるのね」とその意見を認めつつ「でも私はこう思うよ」と思っていればいい。
昨日、気になるtweetを見かけた。
リツイートで回ってきたので、知ってるアカではなかったけれど。
映画刀剣乱舞に関してのことで、ぷらいべったーを使っていたけれど公開だったので読みました。
私は映画刀剣乱舞はすごく楽しめました。
そしてとても評判がよくて、各方面で称賛されています。
でも、そういうものに対しても、やはり好きじゃなかったっていう意見ははっきり言っていいと思うんです。
当然のことながら、私はすべての人が満足しているわけではないと思っている。
あの「ボヘミアン・ラプソディー」だって、ディープなQueenファンには賛否両論だったりする。
私自身、花丸はよくわかんないなと思うくらい別世界の感じですし、何度も言いますが活撃の11話以降は絶対受け入れられないと拒否しています。
でも「受け入れられない」ということを「言ってはいけない」とは思いません。
活撃のことはどこが受け入れられないのかをはっきり記事にして発言したつもりです。
深く愛すればこそできるダメ出しがあるはず。
だからこそ「よくなかった」という人の意見も聞いてみたいと思ったので、ちょっと期待して読みました。
でも肩透かしだった。
ぷらいべったーの映画刀剣乱舞がイマイチだと思った方の記事には、どこがイマイチだと思ったのかがはっきりと書かれていない。
そこを書くと、解釈違いだとかいろいろ言われるから、わざと書かないようにしていらっしゃるのかなとも思います。
だけどそこを知りたかったです、私は。
どこがどう駄目だと思われたのかを言葉にしてほしい。
言葉にすることの難しさは私も常々思っています。
だけど、言葉にしなければ何一つ伝わらない。
私の観た映画館でも最後エンドロールが終わると拍手が起こりました。
でもその拍手の意味は一つではなかったと思うのです。
皆が拍手をした。世の中の意見は「肯定」。
だから、この映画はもはや批判できない空気。
批判できない空気なんてどこにもないよ。
映画ごとき、気に入らないものを気に入らないと正直に言うことのなにがいけないのか、何に気を遣っているのか。
与えられてもいない「同調圧力」を、過度に感じているのではないかしらと思った。
拍手にしたって、本当に「ブラボー!」と思ってしている人とそうでない人がいると思う。
少なくとも私の拍手は、刀ミュの「結びの響、始まりの音」の第一部を観たときのそれとは意味がちょっと違った。
ツイでも流れていたけれど、こういうコスプレまがい(失礼!)の要素のある2次元のアニメやゲームを映画化って、大惨事になる典型的なパターンじゃないですか。
最近でこそ銀魂みたいに評判のよかった作品がありましたが、ちょっと前の○マトとか、ガッ○ャマンなんて爆死だったみたいだし。
(ちなみに私はガッ○ャマン大好きです。アニメはめちゃくちゃハマっていました。コンドルのジョーと南部博士とベルク・カッツェが好きだった。だからあえて観に行かなかった。いや、行けなかった。がっかりするのが嫌で。)
だから期待ももちろんあったし楽しみにはしていたけれど、どこかでがっかりする覚悟もあったんですよ。
がっかりしたって大丈夫、私には私の本丸があるし、刀ミュもある。
がっかりしたらおうちに帰ってらぶフェス2017観て、ゲームやって、兼さんのこと考えて忘れようって。
だから、特殊な設定の世界のキワモノというかイロモノというかそういう部類レベルで終わらない完成度で、フツーにちゃんとした時代劇映画として成立していたことに対する、ああよかったよ、安心したという拍手でした。私の場合はね。
私も少し思うところはあります。
それは、めちゃわかりやすかったということ。
いいところなんですよそれって。
だけどそれは欠点にもなり得る。
誰にでも受け入れやすいものを求めてはいない。大衆受けするものが欲しいわけじゃない。
とうらぶの世界観を守ってほしい。そんな気持ちもやっぱりあるのです。
クセがなかった。
私はいい具合にクセをマイルドにして食べやすく処理してあると思ったけど、そのクセこそが美味しいと思う人は必ずいるものです。
でも、特に問題あるほど設定をいじられているとは私は全く思わなかった。私はね。
ただ、不動行光の扱いがちょっと「?」ではあった。
たまたま刀ステと同じキャストさんが演じていたので刀ステの燃ゆる本能寺と混同してしまいそうになるのだけれど、刀ステの不動行光とは別物ということですよね、違う本丸だから。
一応不動行光は森蘭丸が持っていたということでいいのですよね?
森蘭丸は本能寺で死んだけれど不動行光は森蘭丸と共にいたから、信長が本能寺の変でどういうふうに死んだかをその目では実際に見てはいないということでいい?
あとは、前にも書いたけど、刀ステと比べると三日月と山姥切の特別の関係が全くないことには、刀ステつながりで期待していた人には寂しかったかもしれないなとちょっと思う。
んー、でもこうやってもう一度考えてみたけれど、どれも決定打ではない感じだなあ。
決定的に駄目だと思った審神者さんがひっかかった要素って何だったんだろう?
私が気が付かなかった何かがあったんだろうな……。
やっぱりちょっと知りたいなあ。具体的に。
いくら評判が良くても私には駄目だったというものはあって普通だと思う。
Not For Me
私向けではない。
そう言葉に出すことは、何も悪いことではないと思う。
そういう意見がネット上にちゃんとあるということがとても大事なことだと思うから。