”土方の「土」のてん” について | 雪の上に照れる月夜に梅の花

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雪月花の時 最も君を想う…土方歳三、新選組、薄桜鬼大好き

とうらぶの和泉守兼定の極の三通目の手紙の「土方」の「土」の文字に「てん」が付いていた件

 

土方歳三資料館の過去記事に、「土」の「てん」に関する記事がありました。


 

 

そうだったのか~。

点がついたものは代筆のものが多いのか。

 

ただ、土方歳三資料館のブログのこの記事を読んで、「あれ?土方さん自身も『てん』を付けていたものもわりとあった気がするな、私の記憶違いかな」と思った。

土方さん、結構自分の名前の崩し方が酷いのも多いからw

 

そう思って、書簡集を見てみました。

 

 

この本の表紙の「土方歳三」という文字は、土方さんの手蹟じゃないです。

綺麗な字ですがw

確かに「てん」が付いていますね。

 

この本には土方さんの実際の手紙(代筆含む)28通の実物写真と解読文、読み下し文、解説が載っています。

1995年初版の本なんで25年以上前に発行された本だし、今現在って土方さんの手紙は少なくとも44通くらい見つかっていると思うんで全部載っているわけではないです。

 

沖田総司は土方さんの土の字には「てん」を付けてますね。

近藤さんの書簡もうちにある複製で見てみましたが、それでは近藤さんは「てん」を付けてなかった。

 

一応この本に載っている手紙で、土方さん自身が点を付けているものといないものとで比べてみて、最初は相手先とかで差をつけているのかなとか思ったけれど、そうではなかった。

いやいやいや、結構明確でしたよ。

人生の後半のほう、慶応元年三月以降の書簡は一通だけ署名を簡略しているものをのぞいてはみんな「てん」が付いていました。(この本に載っているものだけです)

宛先はほぼ小島鹿之助、佐藤彦五郎、井上松五郎、宮川音二郎のもの。

西本願寺に屯所を移し、将軍も上洛して、さあ頑張るぞという時期から「てん」が付いた感じ?

 

 

このころの人たちの名前に関するアイデンティティーの持ち方って、現代の私たちにはちょっと理解しがたいところがありますよね。

諱……土方さんだと「義豊」ですね……だけは決まっているけど、日常は使わない。

日常の名前の「字」(あざな)は結構いい加減ですよね。

変名、偽名はもちろん、改名だってへっちゃらでどんどん変えてしまうし、音さえ合っていればどんな漢字を当てていても本人も気にしなかったりする。

 

土方さんも「才三」とか「歳蔵」「年蔵」「歳三」とか、いろいろ書かれているし、自分でもいろいろ書いていた時期があった。

浪士組に参加して上洛する前は、「土方」という姓も「石田」とされて「石田歳蔵」と書かれているのがわりとある。要するに「石田村のとしぞう」だったわけで。

 

なんか私が子どものとき、初めて土方さんを知った頃かなぁ……。

私の亡くなった明治生まれのおばあちゃんは「ひじかたさいぞう」って言ってたことを思い出した。

「としぞうやで」と言っても、おばあちゃんはすぐ忘れて「さいぞう」って言ってたよ。

今でこそ土方さんは「歳三」で「としぞう」が当たり前だけれど、大昔、土方さんの字は「サイゾウ」と読むのか「トシゾウ」と読むべきかの議論があって、「年蔵」の表記が見つかって初めて「歳三」は「トシゾウ」と読むのが正しいと確定したという話を聞いたことがあります。

「年蔵」は「サイゾウ」とは読めませんからね。

 

 

なので、土方の「土」の字に「てん」を付けるか付けないかは本人的には最初はあまり気にしていなかったのかもしれないなと。
でも、子孫の方の著書をもう一度よく見てみたら、土方家の過去帳の写真があって、土方歳三の戒名の部分で「俗名土方歳三」というところの土の字には「てん」があるんですよね。

 

長子が「隼人」という名を受け継ぎ、すべてを相続したあの時代。

お兄さんが「土方」といういわゆる「隠し姓」を継ぎ土方家の当主「土方隼人」と名乗る。

でも十人兄弟の末っ子の彼は「石田村のとしぞう」でしかなかった。

 

その彼が、浪士組の一因として上洛し、武士の身分のある人たちに交じって姓を名乗るようになり、そして「鬼の副長」という二つ名を持ち世の中で「新選組にこの人あり」と言われるようになると、やはり「字」がただの呼び名ではなく、彼個人を表す特別の意味を持った記号になっていくんじゃないかなぁ……とか。

 

代筆させた手紙は初期から「てん」付きの「土」だったということですが、初めて代筆するときに祐筆も名前の漢字を質問するだろうし、本人が指示しているんじゃないかと思うんだけどなあ。

ということは、土方さんは本人的には「てん」付きの「土」が正式だと思っていたか、もしくはそのほうが好きだと思っていたんじゃないのかな……とか。

 

 

ま、私の妄想です。

 

 

で、とうらぶの和泉守兼定が極まるときの三通めの手紙にだけ「土」の字に「てん」が付いている件

 

ゲーム内で兼さんは土方さんのことを「土方歳三」か「前の主」としか言ってなくて、一度も「土方さん」とは言ってないし、ましてや「土方」呼びは初めて。

 

いろんな考え方ができると思う。

 

私は……。

 

活撃見ちゃったから、それに引きずられるところもあるんですが。

やっぱ、土方歳三という前の主への思いを乗り越えたんだろうなと思う。

少し客観視できるようになったみたいな感じかなあと。

極の兼さんは、前の兼さんの箱館の回想みたいに、箱館で涙を流したりはもうしないんだよね。

呆気ないもんだなっていう感想で。

「土方歳三が死んだ」でも「土方さんが死んだ」でもなく、「土方(点付き)が死んだ」という書き方なのは、「土方さん」という「さん」づけ呼びの親しみというか、身近さみたいなものとはサヨナラで、一歩離れて、でもどこかきちんと感を出して名を呼びたいみたいな気持ちかなぁと思った。


土方さんは彼の「核」
土方さんが呆気なく死んでしまったという想いが彼の「核」だという彼。

そして今ならそれを乗り越えられると。

その彼の言葉をどう解釈するかは人それぞれ。

 

ある意味、やっぱり兼さんにとって土方さんは特別な人のままなんだと思う。

それがあの「土」の「てん」のような気がしている。

 

「今なら乗り越えられる」とは言っているのに、衣装は胴をつけて鉢金つきの鉢巻をして、そしてマントだったダンダラが、今度はちゃんと羽織になって。

髪型もポニテとみんな言ってるけど、髷を復活させているとも考えられる。

だからすごく懐古趣味っぽくなってるなぁって思うところもある。

前よりもずっと、京の新撰組時代に戻ってしまっているような。

ボスマスのことを池田屋みたいに言ったりとか。

修行で土方さんと箱館に行って土方さんの死を受け止めたなら、もう少し戊辰戦争の土方さんの姿を映してほしかったなぁ。

 

兼さんが土方さんにこだわるにしても京時代のほうにばかり向かうのはちょっと残念で。

池田屋事件の頃が新選組のピークだったわけではないのよね。

本当の新選組は白刃戦にこだわる古臭い集団だったわけでもない。

むしろ銃を積極的に取り入れていた。

でも一般的には新選組は今現在でもそんなイメージで世間に受け止められているままだからしょうがないのだけれど。

希望としては、過去のイメージに完全にバックしてしまうんじゃなくて、最新研究で分かった部分も少し取り入れてほしかった気がします。

 

……と、兼さんが極まって、何日か経って落ち着いてきたら思うのでした……。

 

ポニテは好きです。

すっきりとしたしね。

でも、衣装は総合点だと極まる前の方が好きかもしれない。

そして真剣必殺も、完全に脱ぐだろうことはわかっていたけど、やっぱ完全に脱ぐより前のホットリミットスーツみたいなやつの方が色っぽくていいなあ。
あれ大好きだったから。

 

あと、Twitterで、あの新しい真剣必殺で、右わき腹に銃創みたいな傷があると言ってた人が。

それでよく見たら、本当にあるね、小さいけど。

 

ちょっとショックだった。知らない方がよかった。

 

 

スキン、陰陽師みたいに着替えられたらいいのになあ。

やっぱ、前のデザインも好きだったから。

 

 

 

長曽祢さんと安定も極にしました。

 

その件はまた後日、できれば記事にしようかなと思っています。

 

 

そして、毛利君はぜーーんぜん来ません。

今回もダメそうです( ノД`)シクシク…