もう勘弁ならねえ | 雪の上に照れる月夜に梅の花

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雪月花の時 最も君を想う…土方歳三、新選組、薄桜鬼大好き

昨夜、とうらぶしながらテレビを流していたら…。
 
偶然とある番組で龍馬さんを扱っていて。
「○○(伏せました)の今でしょ!講座」というやつ。
 
T大教授という人が龍馬さんのことを講義(?)していました。
 
それがですね…。
・坂本龍馬は斬新な視点を持ったアイディアマンだという印象があるけれど、彼が手紙に書いたりしていた新アイディアはみんな西郷隆盛が考えたもののまた聞きである。
・いろは丸事件で、積み荷は最新型の銃だったと言って紀州藩から多額の賠償金を巻き上げたが、実は積み荷は米と砂糖だった。
 
かように坂本龍馬はずる賢い男だった。
 
というのでして、へーーーっと思いましたが、龍馬さんのことは詳しくはないので聞くにとどめて、耳はテレビだけど目はとうらぶの画面を見ておりました。
しかし、出演者の「坂本龍馬は薩長同盟の前から西郷隆盛と交流があったのか?」という質問に、この教授は「面識はなかったけれど、薩摩藩と土佐藩のつながりで西郷さんの話を龍馬が聞いていた可能性はある」と答え、歴史学者とは思えぬぬるい根拠で新説を唱えていることに驚いて、テレビで話している教授とやらの顔を確認してしまいました…。
 
そしたらだ…、この教授、聞き捨てならぬことを言い出した。
 
「新選組斎藤一、坂本龍馬暗殺説」
 
えええええ。
そんなん、まともなところで聞いたことないぞ…。
 
 
まずは定説と言われている「京都見廻組説」の否定から。
 
否定理由
①実行犯とされた今井信郎の自白がのちに二転三転し、龍馬暗殺の実況見分の傷口と合わない。
②自白をし罪を問われて投獄されて(明治三年)いた元京都見廻組の今井信郎が、人を殺したというのにたった二年後(明治五年)に釈放されているのはおかしい。
 
 
まず①に関しては、あとでまとめて語るので少し置いといて…。
 
②に関して。
明治五年というのは旧幕府軍に対する特赦があった年。
このとき、榎本武揚や大鳥啓介なども特赦で出獄している。
今井信郎も箱館戦争を戦いぬいて捕らわれていたのだから、特赦で出獄になってもおかしくないと思う。
そもそも坂本龍馬暗殺に関しては、当時は近藤勇がその罪ですでに斬首されたのだから一応「解決済」だったのではないのか?
近藤勇は暗殺当時からずっと「やっていない」と言い続けていたのに、新政府側の一部の人たちに中岡・坂本を暗殺したと決めつけられて、ろくな取り調べもされずに早々に斬首されてしまったのではなかったっけ?
だから明治五年の時点で京都見廻組の仕業だったということになると、あれは冤罪だったということが明らかになってしまうのでは?
だから、今井信郎が釈放されても全然不思議はないと思うんだけれども。
 
 
そして次に新選組斎藤一を真犯人とする根拠としてその教授は次の三つをあげた。
 
①龍馬は北辰一刀流の免許皆伝。その彼を倒すくらいの腕の持ち主
②左利き
③薩摩藩(西郷)との接点
 
要するに、この教授は薩摩藩陰謀説を採用されているわけですが、それでもものすごく無理がある。
 
①の斎藤一が新選組の剣戟師範であり、新選組の中でも指折りの腕の持ち主であったことは認めます。
さて②ですが。
斎藤一が左利きだったというのは、物語の中での話です。
薄桜鬼の一君推しの方たちですら左利きというのはフィクションだということをちゃんとわかって、それでもフィクションはフィクションとして楽しんでいる人たちがほとんど。
それを、何の根拠があってこの教授は斎藤一が左利きだったと言っているのか?
子孫の方も、あの時代、左利きを右に矯正されなかったことはありえないというお考えのようですし、左利きだったという証拠はないとおっしゃっていると漏れ聞いています。
それをこの教授は、要するに、新選組というのが武士ではないものの寄せ集めであり、天然理心流がいわゆる田舎の農民相手の芋道場だったという、これまた物語の中の話をそのまま持ってきて、武士の道場じゃなかった、武士集団じゃなかったから左利きでも矯正されなかったというようなことを言っていた。
一君、生まれは士分だよ…。
 
そして。
坂本龍馬の暗殺時の傷が額に一文字だったことを取り上げ、とある時代劇スターに武士は普通、座るときに刀を右側に置くという作法をさせて、左利きだと有利だという説明をしていた。
つまり、刀を右に置くと、右手で鞘を掴み上げ一度左に鞘を持ち直して右手で抜刀する(なので右に置く=敵意がないということになる)、ワンクッション動作がある。
これが左利きだと、右側に置いた刀の鞘を右で取ってそのまま左で抜刀できる。
そしてその抜きがけに右から左へと一気に切っ先で龍馬の額を斬った…っていうんですよ。
 
だけども。
それ、座っているときの話やろ?
百歩譲って、もしその刺客が龍馬の部屋に通され正面に座ったとしたら、そのとき一緒にいた中岡慎太郎はどこにいたの?
それに、「実況見分の傷と違う」というけれど、実況見分なんてどこに残ってるの?
どこにも残ってないよ。
記録はいくつかあっても、どれもこれも一致していないのではなかった?
傷が「右から左」への一直線だったって、その切り口の方向まで、いったいどこに書いてあったん?
 
 
そして最後の③
 
斎藤一は当時新選組ではなく、薩摩藩と通じている御陵衛士だった。
だから斎藤一が真犯人だ!
 
………。
うん、暗殺の五日前まではね。
慶応三年11月10日に斎藤一は高台寺月真院を抜け出して新選組に戻っているんだよね…。
ちなみに、油小路の変は11月18日。龍馬暗殺の三日後です。
 
そして、龍馬暗殺の前日あたりに、近江屋に潜伏している坂本龍馬のところに伊東甲子太郎が「幕府側が狙っているから土佐藩邸に移った方がよい」と言いに来たという記録をどう説明するのだろう?
もし、本当に御陵衛士に薩摩藩が龍馬暗殺を命じていたとしたら、伊東甲子太郎はそんなこと言いにいかないと思うんだけれど。
だって、藩邸に入られてしまったら狙いにくくなるでしょ?
実は近江屋は土佐藩邸のすぐ向かい側にあって、龍馬はそれなりに何かあれば土佐藩邸に逃げ込めるようにはしていたみたい。
 
それと…。
この時期、薩摩や土佐の主要な志士たちは、暗殺の危険を感じてほぼみんな国に帰っていて京にはいなかった。
龍馬は土佐藩では身分も低いし結構微妙な立場で、龍馬自身が土佐藩邸にかくまってもらうのを遠慮したという話もあるし、そんな龍馬に薩摩藩がうちにおいでと声をかけていたという話もある。
 
…薩摩藩黒幕説ってだからもうあんまり言われていないと思っていた…。

 
 
 
歴史の専門家とはいえ、時代が違うから…と言いたいところですが。
 
そこじゃなくて。
信じるに足る証拠をきちんと提示せずに、想像や推測の話を歴史のプロだと思っていた大学教授がテレビでしてしまうことにすごくがっかりしました。
 
 
 
 
テレビ、特にバラエティーレベルの番組では新選組関係のことはもう見ないように気を付けているのですが…。
 
 
とにかく、
 
異議あり!異議あり!異議あり!!!
 
と、久々にテレビの前で叫びたくなる番組でありました…。
 
 
 
お粗末で泣けてくるわ