あなたは「このため」に生まれてきた
98ページの
「自分のことが嫌い」なら、まずここを“クリア”する
を読んで、
まだ自分のこと嫌いだな、私。
そんな風に思ってた。
ぢんさんは「好き・嫌い」を超越したところに、自分を愛したい気持ちがある、と。
読んでいて、先月購入した渡辺和子さんの
- 「ひと」として大切なこと (PHP文庫)/PHP研究所
- ¥600
- Amazon.co.jp
先月のおかぴー会で、集合時間に少し早く着いてしまい、目の前のTSUTAYAを覘いていたら出会ってしまった。
そして即、買ってしまった。
彼女は、
- 置かれた場所で咲きなさい/幻冬舎
- ¥1,000
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(↑この本もすごくいい)
「ひと」としてたいせつなこと、は彼女が大学で担当している「人格論」という授業をまとめて本にしたもの。
ぢんさんのBeトレにかなり通じるものがある。
こんな授業を学生の時に受けたかった( p_q)
彼女は、幼い時にお父様を目の前で殺された経験を持っている。
(「2・26事件」。お父様のとっさの判断で彼女は無事だった。)
「愛」という題目の中で、こう言っている。
少し長いですが、抜粋。
私は今から数年前、2月の26日あたりにテレビ局に呼ばれたことがあるんです。2・26事件で殺された側のただひとりの遺族になってしまったものですから、あのような血なまぐさい事件を二度と起こしたくないためにも出て欲しいと言われて、出たことがあります。
そしたら、そこに、私の父を殺した側の人が思いがけず呼ばれてきていて、その人と一緒に、コーヒーを飲む羽目になりました。ところが出されたコーヒーを口元まで持って行っても飲むことができなかったんです。あのような経験は生まれて初めてしました。その後もしたことがありません。私の好きなコーヒーなんですけれども、コーヒーカップを口元まで持って行きながら飲めない。昔から一緒に飲んだり食べたりするということは、友達の印だと言いますが、ほんとうにそうだとしみじみ思ったんです。なにか知らないけれど、血が騒いで、ようやく録画を撮って帰りました。
その時に、敵を愛するということは難しいことだとしみじみ思いました。それまでは、「殺した相手を憎いですか?」と聞かれたら、「いいえ、もう許しています」とか、きれいな返事をしていました。ですけれども、自分の父を殺した相手が目の前にいる時、一緒に物を飲む、食べるということができなかった自分は、やっぱり人間なんだと思ったし、修養ができていないと思いました。今「その人を憎んでいますか」と聞かれたら、「いいえ、憎んでいません」と私は言うだろうと思います。「愛していますか」と聞かれたら、「はい、愛しています」と。
その愛していますということは、ごたいせつに思っているし、その方をかけがえのない、この世にたった一人の方として、もう八十くらいにおなりになると思いますが、老後を幸せに過ごしていただきたいと願っているということなのです。その方を憎まない。その方が、不幸になったらいいと願わないというのが、せめてぎりぎりのところで愛しているということです。
好きとは違います。
好きでないから愛せないかというとそういうことではなくて、好きでなくても愛せるということ。それほど意志的なものだということ、それほど人格的なものだということです。感情的、生理的には、その人は嫌いです。そばに寄りたくないし、もう二度と会いたくないのです。
しかしながら、人格的・意志的にはその方の幸せを願うことができるということなのです。
愛することは、必ずしも好きでなくてもいい。
嫌いなところがあってもいい。
いとおしむ、大切に思うこと。
「愛」の幅って大きい・・・。
「好き」も「嫌い」も包んじゃうんだな。
もっと違う次元の話。
今まだ、「自分大好き!!」は難しいけれど、いとおしむ、大切にすることが少しずつできてきているように思う。
やりたいことしている。
行きたいところに行こうとしている。
少し前に比べたら、大きな一歩。
こんなふうに、ぢんさんの本とつながるなんて。
不思議。
感謝v(^-^)v