皆さんご存知の通り、癌で闘病中だったBLOWSファイターの呑谷尚平が1月24日に逝去しました。
去年の春に練習中の怪我から治療のため精密検査をしたところ癌が発覚、「呑谷尚平を応援する会」を立ち上げ、団体の垣根を越え、たくさんの方から温かいご支援を賜り、本人も頑張りましたが病に打ち勝つには及びませんでした。
呑谷の亡くなる2日前、お母様から「尚平が中蔵さんに会いたいと言っている」と、電話があり、あまり病状が良くないと聞いていたので、なんとなく俺も覚悟を決めて翌日彼に会いに病院へ。
つい先週までは会いに行けば、しんどそうなものの、普通に会話し、メシも食えていたのに、その日はたった数日でこんなに悪くなるのかというぐらい変わった呑谷が目の前にいた。
足はパンパンに腫れ上がり、片方の肺は潰れてしまい呼吸器を着けなければ息をすることもままならない。
水すら口に入れても呑みこめない状況で、乾く口を水で湿しながら、モルヒネの影響で意思とは関係なく閉じる瞼を指でつまみ上げ、俺の方をしっかり見ながら呑谷は話し始める。
呑谷は癌になっても何も恨んでいない、むしろこんなになってしまった自分を多くの方々が、格闘技の輪が支えてくれて本当に感謝している、自分は本当に幸せ者だ。と、泣き言も言わず、悔いがあるとも言わず微笑みながら、情けないぐらいに泣きじゃくる俺の横で淡々と感謝の意を話し続けた。
この時、呑谷は近いうちに自分が死ぬということを知っていたと思う、こんな状況になって、寝ていたほうが楽なのに、喋らないほうが楽なのに、ただただ感謝の意を皆へ伝えたい思いで俺が来るのを待って、最後の力を振り絞ってそれを伝えた。
自分がもし、死ぬとわかった時、皆へありがとうと言えるのか、こんな立派に強く、最後を受け入れられるのだろうか?
色々な思いが錯綜し、正直怖かった。
弟子であり、弟のような人間がいなくなるかもしれない。
ほんの数分が何時間にも感じられ、微笑みながら話す呑谷を見るのが辛かった。
最後に呑谷は俺とBLOWSのことを話してくれた。
俺と一緒に練習して仕事ができた時間は本当に幸せだったと、BLOWSの選手たちには早く有名になって、自分たちの名前で試合のオファーが来るようになって欲しいと。
それだけ伝えると「ちょっと疲れました」と言って目を閉じたので俺も「もういいから休め」と言ったが、これで話ができるのは最後だろうと思った、時間にして約10分ほどだったけれども、本当に何と形容すれば分からない本当の覚悟というのを見せてもらった。
悲しいけど、呑谷の代わりに生きることはできないし、呑谷の代わりにリングに立つこともできないが、幸いにも俺たちは呑谷が目指した同じ道の上にいる。
みんな、葬儀の時に流した涙が本当なら、呑谷の意思を継いで、志半ばで倒れた仲間の意思を継いでほしいと思う。
もちろん俺もそうだ、呑谷の最後を看取った責任、遺言を受けとった責任を果たしていこう。
道を外しそうな時、挫けそうなときは化けて出て怒ってくれ。
あ、でもシャンプーしてて顔あげたら鏡越しに居るのとかは勘弁してください。
出るときはLINEとかで事前に知らせてね。
なんでも一生懸命な弟子で、可愛い弟で、偏屈な俺の良き理解者で、心許せる友だった。
お前と過した日々は忘れません、俺も幸せだったよ、ありがとう。
合掌。