キリスト教やイスラム教には、教典がある。
キリスト教でいえば聖書があり、イスラム教にはコーランがある。
教典の中には、教義が書かれている。
世界三大宗教のうち、仏教にだけ教典がない。
(厳密にいえば、各宗派ごとに教典なるものは存在しているとは思うが、ここで<ない>と表現したのは、万人が誰であれいつでも読めるように統一された教典がない、という意味です)
このことの意味することを紐解いてゆくと、キリスト教やイスラム教は、救済を目的としているということが浮かび上がってくる。
人々を救うことを目的としているのだ。
ところが仏教はといえば、解脱(悟り)が主たる目的なのである。
人々を救うのではなく、自分自身を煩悩(欲)から解き放つことが、主たる目的となっているといえる。
キリスト教やイスラム教が外側に意識を向けているのに対し、仏教は内なる自分に向きあおうとしているのだ。
以前、若かりし頃のイチロー選手がマリナーズで活躍していた時、一部のチームメイトから「彼は、個人プレイをしている。チームのための仕事をしていない!」と非難されたことがあった。
野球やサッカーなど、チームで戦うスポーツでは、チームのためにに自己を犠牲にするということが美徳とされている。
多くの選手が、自分の成績がどうあろうとも、チームが勝てればいいんだと云っている。
これはある意味、キリスト教的なグローバルスタンダードなのだろう。
ところが、イチロー選手は、自己を高めることを第一義に考えてプレイをするのだ。
もちろんチームが勝つことがベストではあるけれど、それだけではなくて、自分がそこから何かを得られたり成長できたりする方が、試合の勝負(かちまけ)よりも、もっと大事なのだ、と彼はきっと考えていたのだろう。
そういう意味で、彼は仏教的な思想を持った、文字通りのサムライであった、ともいえる。
うつなどで悩んでいる人に対して、ぼくは、先ずは自分自身が幸せに生きることを考えて下さい、といつも云う。
たいていの人は、親のため、あるいは子供のため、夫や兄弟姉妹のために、自己を犠牲にして頑張ってしまって、その結果、うつになってしまっている。
家族👪であれ、他人なのだと考えてかまわない、とぼくは思う。
自分はどんな目にあってもいいので、この人だけは助けてほしいと思えば、その通りに自分の心や身体はボロボロに壊れてしまうのだ。
他者の救済を考えるのなら、先ずは自分が幸せになるべきだ。
自分が幸せな生き方をしていれば、おのずとその良い波動が周囲に伝染してゆくものだから。