いとさんとこいさん | blondcoco の人生相談

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大坂(大阪)を中心とした関西圏では、かつて良家のお嬢様のことを、人々は親しみをこめて<いとさん>と呼んだ。

<いとさん>という呼称は、愛らしい、つまりは愛しい(いとしい)という言葉から転じたものだったようだ。

<いとさん>に妹ができると、その女の子は<こいさん>と呼ばれた。

<こいさん>とは、小さい方のいとさんから転じて、こいさんとなったのである。


江戸時代中期にもなると、千石、千五百石積みの大型船が多く造られるようになった。

その大型船の多くは、大坂(大阪)や兵庫から瀬戸内海、下関を抜けて、日本海(当時は、北前と呼ばれていた)を経由して、蝦夷(北海道)に渡るために造られたものだった。

新しい船を造ることを、当時は<新造>と云っていたのだが、いつしか船乗りたちが嫁さんを貰うと、その若奥さんのことを<ご新造さん>と呼ぶようになり、やがてその呼び名は市中の間の市井の人々にも広まってゆくのである。


船の後方の部分を<艫>(とも)という。

江戸期には船にエンジンなどはなく、帆を張って航行していた。

<艫>(とも)に真後ろから風があたると、船は勢いを得て進むことができた。

そのことから、船乗りたちは<艫>(とも)に真後ろから風があたることを欣び、その現象を<まとも>と云うようになった。

それが今日でも、日常会話の中にたびたび登場してくる<まとも>の語源となっているのである。

(順風満帆という言葉も、風が<艫>(とも)から吹いて来て、帆をいっぱいに上げた様子から来ている)


江戸中期には、蝦夷(北海道)は、松前と函館、様似、厚岸、根室などに、合わせてもわずか数百人程度の和人(日本人)が居住しているに過ぎなかった。

(そのほとんどは、松前藩士であった)

北海道全土には、その何百倍もの蝦夷人たちが棲んでいた。

彼らの多くは、主に沿岸近くに棲み、鮭や鰊、鱒などの魚を漁ったり、昆布を漁ったりして、自給自足の暮らしをしていた。

しかし和人(松前藩士)たちがやってくると、武器を見せて彼らを脅し、海産物などを搾取したのだ。

蝦夷人は、和人(日本人)とは異なった骨格を持ち、性格はおとなしく、言語も違っていた。


一方その頃、北の海からは、赤人(ロシア人)がたびたび北海道沿岸にやってくるようになった。

彼らは、魚ではなく、毛皮となる小動物を求めて、カムチャツカ半島から千島を経由して南下してきたのだ。

江戸や大坂や京都に棲んでいる和人たちには、そんなことは知る由もなかった。


幕末に、アメリカからペリーが大鑑を率いて浦賀沖にやってくるよりも、もっと以前の更に100年ほど前に、すでに赤人(ロシア人)たちが北海道のあちこちに出没していたのだ。

彼らは、蝦夷人の女性をさらっていったりもした。

その頃から、国後島と択捉島は、ロシアとの攻防の最前線になっていたのである。



ps

ぼくは、書物の中で、船乗りになっていた。

常に風の動き、潮の流れに敏感になっていた。

そうして、冬の日本海の風雨と激しい波頭にも耐えて、北へ北へと進んだ。

蝦夷(北海道)から更に北へと向かい、国後、択捉にも行ったし、カムチャツカにまでも行った。

濃霧の中、陸地との距離を測り、慎重に進んだのだ。

一歩間違えれば死という、その深淵を覗くような航海を体験できた。


司馬遼太郎著「菜の花の沖」は、ぼくを船乗りにしてくれた。

今回のブログ記事に書いたことは、すべて「菜の花の沖」の中から教えてもらったことです。

知らなかった人も多数いると思い、余計なおせっかいながらアップさせて頂きました。