矢沢永吉さんは、1949年(昭和24)に広島に生まれました。
彼の両親は、その4年前の1945年8月6日に広島で被爆していました。
お母さんは1951年、一人息子の永吉さん(当時2歳)を残して家を出て行きました(お父さんの元から逃げたのです)。
お父さんは1954年、永吉さんが5歳の時に、被爆していたことが原因で亡くなりました。
以後、彼は親戚をあちこちたらい回しにされながら小学生、中学生、高校生時代を過ごすことになります。
父方のおばあちゃん一人だけが彼に優しく接したものの、他の親族は彼をいつも冷たい目で見ていました。
高2になったある日、彼は友達から誘いを受けます。
その友達のお姉ちゃんが広島市内のキャバクラで働いていて、そこの社長さん(市内に3件のキャバクラを経営していた)からとても可愛がられ、弟である友達にも再三に渡り、遊びに来なさいと声をかけてもらっていたものの、彼は一人で行くのは恥ずかしいので、友人の永吉少年を誘ったという訳です。
誘われた永吉少年は、社長さんにいろいろと質問を投げかけます。
「ぼくも将来、社長さんのようなお金持ちになりたいんですけど、どうやったらなれるのですか?」
社長さんは、熱心に目を輝かせて質問してくる永吉少年を気に入って、一冊の本を差し出します。
「この本を君にあげるから、よく読んでみなさい!」
デール カーネギー著「人を動かす」でした。
彼は自宅に戻ると、むさぼるようにその本を読み始めます。
この本を読めば、社長さんのようなお金持ちになれるものと、ピュアに思い込んでいたのです。
当時16歳の彼は、なんとその本を10回以上も繰り返し読んだのです。
そしてそのことにより、彼にはデール カーネギーの思考のクセが乗り移っていったのです(自分でも、おそらくは気付くこともなく)。
やがて高校を卒業すると、彼はアルバイトで稼いだ3万円と。おばあちゃんがくれた2万円、合わせて5万円を握りしめて広島から東京に向かってゆくのです。
列車に十数時間揺られ、東京を目前に、彼は横浜で下車します。
おそらくは、直感がひらめいたのでしょう。
ここが、俺の街になる所だ!と(これもきっと、デール カーネギーの「人を動かす」の影響を受けていたのでしょう)。
彼は横浜駅を降りるとすぐに、電柱に貼ってある求人広告を見てそこに向かうことにしました。
全く他と比べたり選択することもなく、一番最初に目にした広告主の元へ彼は颯然と向かいます。
彼が向かった先は、場末の居酒屋でした。
住み込みで食事付きでしたが、彼の仕事は、酔客の吐いたゲロの処理などの汚ない雑用ばかりでした。
普通の人だったら3日で辞めるような仕事でしたが、デール カーネギーの「人を動かす」を読んでいた彼にとっては、ちっとも苦痛ではありませんでした。
ゴキブリやどぶネズミが駆け回る3畳の部屋に住みながら、なんと彼は3年以上もの間ここで働きながら暮らしてゆくのです。
そして休日の日には、街にくり出しては一緒にバンドを組めそうな人を探すのです。
最初に集まったメンバーは素人に毛が生えた程度の連中でしたが、それでも一応バンド活動を始めてゆきます。
そのうち次第にバンド仲間が集まる所に出かけて行くようになると、彼は腕のいい奴を見つけては「どう、俺たちと組まない?」と声をかけてゆくのです。
腕の良い人間が入ってくると、腕の悪い奴は練習についていけないので、自然と去ってゆくようになります(このこともデール カーネギーの「人を動かす」の影響を受けています)。
そんな風に、何度もメンバーチェンジを繰り返してゆくうちに、最終的にはかなりまともなバンドが出来ていったのです。
〈キャロル〉の誕生でした!
そしてとうとう彼らキャロルは、横浜横須賀地区のアマチュアバンド大会に優勝してしまいます。
その時の審査委員長だったミッキーカーチス(元ロカビリー歌手)から、ユーたちをデビューさせてあげようと声がかかるのです。
そんな折、2歳の時に永吉さんを捨てて出て行った彼の母親の消息を知ることになります。
お母さんは、かなり裕福な関西の商人に嫁いでいたのです。
彼は物心ついた頃から、お母さんのことを激しく憎み続けていました(もしも会ったら、殺してやりたいほどに)。
ところが再会した刹那、彼はお母さんのすべてを許します(これもデール カーネギーの「人を動かす」を読んでいたからでしょう)。
そうこうするうちにメジャーデビューの日が決まり、彼はお母さんにそのことを電話で報告しようとダイヤルを回すのです。
ところが、お母さんは電話には出られませんでした。
その直前に、肺癌で亡くなっていたのです。
まだ40代の若さでしたが、おそらく広島で被爆していたことに由因があったのでしょう。
彼は、天に向かってシャウトします。
そうして彼のメジャーデビュー曲は、大ヒットしてゆくのでした。
お母さんの守護霊に見守られて。