戦国のダブル高松城 | 真空管のアナログ世界に魅せられて

真空管のアナログ世界に魅せられて

「温故知新」と言う言葉が有りますが、真空管は将にそんな存在だと思います。真空管を今では知る人も少なくなりましたが、デジタル全盛の今でも、真空管のアナログ技術を学び、真空管ラジオを楽しむ人は沢山います。私もその中の一人です。真空管を愛しむ想いで・・・・。

大河ドラマ「軍師 官兵衛」は完結しましたが、本日同ドラマの総集編を放映しています。このドラマを観ていて官兵衛の時代を歴史的に振り返って見たく成りました。


戦国武将は天下を取る為に、相手を攻め滅ぼし、それで終わらず、敵方の一族を皆殺しにする事が普通に行われていました。滅ぼされた側から見れば恨みが有るから、仇を討たんとします。後顧の憂いを絶つ為には情けを掛けることは致しませんでした。


時代は遡って、平家の平 清盛が、源 義朝の3人の子(頼朝、義経、範頼)に情けを掛け助けたが為に自らが滅ぶ運命に遭いました。戦乱の時代には情けは禁物というところか。


戦国時代の大物武将と言えば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が挙げられますが、この3人の中で、意外や、家康は比較的情が有りました。


四国高松城

    四国「高松城」


  「軍師 官兵衛」では備中(岡山)の高松城の水攻め」が

  行われましたが、この高松城は四国の香川県・高松にも

  高松城があります(生駒親正築城)。


武田信玄の子、勝頼は信長と同盟関係にあった家康と激しく戦い、天正10年(1582年)甲斐の天目山で自刃ましたが、このとき、勝頼の女子(当時6歳)は、駿河の田中に落ち延びました。家康はこの女子を探し出し、家臣、高力正長に預け、扶持まで与えています。


この当時、家康は信長の配下では無く、同盟関係でしたから、余り、信長に気兼ねしなかったのかも知れませんが、思い切った大胆な事をやったものです。

後に、家康の命で幕臣、宮原勘五郎義久に嫁がせまます。勝頼の一女は嗣子、晴克を生しました。


その他、家康は秀吉の子、秀頼の女子の命も助けました。後に、鎌倉の駆け込み寺と言われた「東慶寺」の住持、天秀尼その人です。天秀尼は正保2年(1645年)に37歳で没っしました。勝頼の男子国松は処刑を免れ、九州に逃れたと言う説まで有りますが、これは、義経は死なずの類の「判官びいき」の一種と私は考えます。


勝頼には、盲目の兄、龍芳が居ましたが、その子、道快の筋は、幕府により、元禄13年(1700年)、甲斐に500石を与えられ、武田氏の再興を許されました。


こうして見ると、家康は敵方であった末裔に対し、意外や寛容で有ったことが見受けられます。もっとも、武田氏と言えば、当時の最高の血筋ですから、滅ぼすに惜しい、助けるにしても女子だからと言う思いも有ったとは思います。しかし、家臣に嫁がせるなどは、「おお甘」の処置と言えそうです。それとも、名門、武田源氏を惜しんだが故でしょうか。



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