追記【ヘルメットの色と仲間たち】小さな記憶の山 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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還暦より年をいった方なら、ああ、あの連中ねとわかる話だが、若い人には難しい話かもしれない。


昭和40年代後半から50年代になると、テレビでしか知らなかった学生運動の波が、東日本の田舎大学にも及んできた。


大学に入って、ある方(確かさ寒河江姉さん)の紹介で、私はセイカガクゼミに入った。

今ならセイカガクといえば生化学と知っている人が多いが、当時はよく性科学と勘違いされていた。


そのゼミというのは、かなり政治的に偏っている勉強会であり、その前段階的なソフト集団であることが分かってきたこともあり、私は途中から実質欠席するようになる。


多くのヘルメット仲間は、このセイカガクゼミにいた。


後に黒ヘルをかぶり、相当有名人となったかなり年上の同期の方には、北の山の厳しさを教えてもらった。彼はのちに、主婦や主夫をしたことがある人なら、田舎人ではない限り99%以上手に持ったことがある商品を作る大会社に入った。

この方には、人間的な考え方も教えてもらった。大人であった。



ドイツ語の授業が金大中拉致事件の討論会になったとき、ほとんどの学生は教室を出た。

私もあまりに子供的発想に、あほらしくなって部屋を出ようとした。

と、何色のヘルメットをかぶっていたかは判然としないが、「お前も出て行くのか!」と壁ドンされたのをきっかけに、数人の猛者に取り囲まれた。

その男は、親戚以外では私の下の名前で私を呼ぶ2人の女友達のひとりであるオバQの、後にダンナとなった方だった。

風体は冬眠明けクマのようでガリガリで粗暴だが、内心は細かい人だったようで、今はいい旦那さんをしていると感じた。だからオバQは今でもあんなに若い。


この場を救ってくれたのが、青ヘルの姉御だった。

姉御は、教授連中も声を知っているくらいの著名人であり、敵対するヘルメットからも一目置かれる存在であった。この方が角材でつつかれ頭から血を流しながら助けを求めたときに、何もせずに実験をしていた自分が実に恥ずかしい。

考えはほとんど正反対だが、知らぬふりをしてしまったことは、一生の恥といってもよい。

もしここをご覧になっていたなら、再度謝りたい。


すみませんでした。



これはほとんどの人は知らないだろうが、赤っぽいヘルメットの姉御とは友人の家での飲み会であい、夜中暗闇で人知れず手を握り合ったりして、へんな関係になりそうになったこともある。

この方は、青ヘルの姉御とは敵対するヘルだったろう。

ヘルメットをかぶると怖いネイちゃんだが、年上の割にかわゆいところもあった。

大きな名前の割には、小柄な方でもあった。


ああ、でも同じ色ヘルの大きな宮に住む方ではなく、大きな田んぼあたりにいた方だ。

あの人をかわいいなんて言ったら、頭に毬栗でも落とされそうだが。


徹夜で、私の卒論を完成補助くをしてくれた方も、かなりの闘士だった。

修士時代から優秀さは知られており、就職後すぐに朝日新聞全国版でも取り上げられた方だ。

この人も、青っぽかったのかもしれない。



政治の1組、ハイカラな2組、のほほんの3組的ななかで、いろんなヘルメットの方々と付き合いがあり、今思うと青色集団研修会の飲み会のようなものにも参加したことがあった。

が、やはり私はのほほんの3組。



結局どのヘルも被ることなく、就職した。





学内にいた私服には、相当写真を撮られたろうな。




しかし、いいヘル連中にも恵まれた。

彼らは過激ではあったが、ブログなどでウソ八百を物知り顔で書くようなあわれなやつは、まずいなかった。


それだけ、プライドも知識も人間性もあった気がする。




追記


少し考えて、反省することがある。


自分でウソをついている自覚がない人がいる。

これは一種の病気だから、その人を責めることはいけないかも知れない。

また、意味不明な怒り方をする人も、病気である可能性が高い。


だから、これを責めてはいけないのだろう。


身近な人には、泣きたいくらいのことも多々あるのだろうけど。