【親父の記憶1】人権擁護 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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親父は、ずっと教育に携わってきた。

私の記憶にある親父は、ほとんど学校やらとの仕事で、家に帰ってきても寡黙だった。

だから、私は親父に勉強せいとも、酒は控えろとも言われたことがない。


これを書くと自慢と受け止められるだろうが、通知票は5があたり前として、学校の成績さえ聞かれたことがなかった。


友人が5をとって、親からほめられたと言った話をするのを不思議な目で見ていた。

さらに、期末試験や高校入試前に勉強するという行動も理解できなかった。

期末前の早終わりは、遊び時間が増えたという感覚だった。



教育者ではあるが、わたしに対しては、教育には無頓着な人だった。


そんな親父は、定年前に退職した。


しばらくすると、法務大臣から委嘱されたと言う人権擁護委員とか言うものになり、家には曰くありそうな方がかなり来ていたらしい。そのころは私は社会人になり、実態は知らないが。




私が子どもの頃は親父を相当いびっていたと思われる田舎の名士が、後日えらく小さくなって家に来たことも目にしている。


しかし、親父は相手が誰だろうと、ほとんど態度を変えなかった。

また、自分の位置が変わっても、それは同じだった。



茶封筒などを差し出す者もいたようだが、すべて突き返していた。


私が子どもの頃、教え子が親父を通して田舎中学校に10万円の寄付をした。

今の感覚で言ったら100万円をはるかに超える額で、それは地元新聞では話題になっていた。

田舎の家が100万で建てられる時代だったから、これはすごい金額だった。



貧乏家であったが、なぜか父も母もよく新聞には出る人だった。

わたしも、高校時代までは、時々新聞に載り、中学時代にはラジヲに私の声が流れたようだ。

その時は、叔父さんが新聞社からおがくずを固めて作ったような凸凹紙や大きな写真ももらってきてくれていた。


ここまでは、私は田舎のホープだったらしい。


その後は、共産主義者の子だの、極右の子だの、やくざの子だの、テロリストだの、まあ殺人者や泥棒、強姦変態・吉外を含めていろんな称号を頂戴した。

いや、実際、爆弾犯の実家の写真として掲載された新聞社の写真には、私の家と思われるものが載っていて驚いたことがある。

その記載された人となりは、私にたいへん似ていた。


たぶん、気の弱い方だと、線路に・・・・。等と言うことが何回かあってもおかしくないだろう。






親父は、いまやっと静かにあちらにいるようだ。


ひどい息子で申し訳なかったと思っている。

が、親父には私の未来が見えていたのかもしれない。




だから、勉強せいなどと、ごく小さなことは言わなかったのだろう。

が、それでも、ここまで馬鹿だとは想像していなかったかもしれない。




親父は旧制中学を飛び級進学し、学生時代は先生の代わりに授業を教えていた人だった。


親父のオヤジ、つまり私の祖父は私が生まれた時には亡くなっていたが、相当怖い人でもあったらしい。

警察にも地元893やさんにも怖がられていたようで、おかげで親父はずいぶんと丁重に扱われていたようだが、叔父などはその跳ね返りで、仲間から相当いじめられたと聞いている。

いや、親父もそれなりのいじめにはあっているのだが、話さないだけかもしれないなあ。


私でさえ、椅子に画びょうを置かれて座ってしまったことがる。



親父の本当の姿は、私も想像できない。

が、私と桁違いに苦労をした人だとは思っている。

と同時に、わずかながら、親父などはおそらく理解できないであろうことを私は知っているし経験しているという対抗心のような物もあった。


が、ひょっとしたら、それさえ感じ予想していたのかもしれない。