その年の8年。太守の王頎が官にやってきた。
倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王である卑弥弓呼とはずっと仲が悪い。
倭の戴斯烏越らを遣わして郡に行き、互いに攻撃する理由を説明した。
塞曹掾史張政らを遣わして詔書と黄幢を与え、難升米に委託して檄文をつくり、これを告げるようにさせた。
西暦だと247年の話だ。
ここで出てくる官とは宮城、つまり洛陽の王の居城だと思うな。
で、卑弥呼が南にある狗奴国とは敵対関係であることは、このシリーズの最初の方で述べているけど、この男王の名前が面白い。
女王卑弥呼に弓という字が入っただけだ。読み方は、ヒコミコで彦皇子ではないかとも考えられる。
つまり、これも卑弥呼同様名前ではなくて彦=男、皇子または尊で、単に男王と言っているにすぎないだろうな。
以前にも言ったが、この当時の名前を固有名詞、つまり個人の名前だと考えるのはあまりに時代を考えていない。
当時、いや今でさえ、王の名前を呼ぶようなことはしないだろうからね。
この後はよくわからない言葉が続くが、おおよそはわかるんじゃないかな。
どうして二国が喧嘩ばかりしているかを説明すると、皇帝が帯方郡の役人経由で倭の役人か実力者に、皇帝の権威と友好であることを示す黄色い旗と、檄文を送ったということだ。
ここまで見てくるとわかると思うが、卑弥呼とは結局、今の象徴天皇に近い役目だったことがわかる。
倭連合国を代表し、その心をまとめる役目はしているが、実際の政治に関わることは難升米が行っている。
現在は多くの勘違いをしている人が多いが、大王(おおきみ)とか天皇とかは、本来そうした象徴だった。
古代はどうか知らないが、天皇が直接裁断を下し政治を司ったことは、日本の歴史ではほとんどない。
後醍醐天皇と明治天皇くらいじゃないかな。
明治天皇にしろ法律上は独断ができる立場だったろうが、現実には軍部などの会議を経て最終決断をするという形式的なものだったろう。
戦後象徴天皇になったことは、神が人になったこととして大きく取り上げられたようだが、本来天皇というのは象徴だった。だから、ある意味本来の姿に戻ったともいえる。
また、これも勘違いしている人が多いようだが、天武が大王という名前に代わって天皇という名前を考えたようだが、天武以降に国の元首が天皇と呼ばれた期間は半分くらいしかない。
つまり、天武以降ずっと天皇という名前の元首がいたわけではない。
ただし、歴史などでは面倒なので、国の元首を天皇の名前で呼んでしまっているが。
さらに、日本の歴史教科書に戦後に作られた従軍慰安婦なる言葉を載せているようだから、日本の歴史教科書もお隣のファンダジーお花畑歴教科書を笑えない部分もあるだろうな。