【少し本音っぽい話】なぜウリナラなのか | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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ずいぶんと知られるようになってきたが、ウリジナルまたはウリナラ文化と呼ばれるものがある。

寿司は私たちが発明し、日本へ伝えた。お茶も剣道も同様、我が国が発祥で文化の遅れた日本に伝えたというファンタジーである。
が、これは一部の人たちにとり事実になっている。
スパゲッティや漢字までも、発祥の地としたりするものもある。

どうしても日本を格下にしたい。
あるいは、自分たちのところから日本人が生まれた。

こうしたい気持ちは、無理をすれば理解はできる。
日本では、義務教育でさえ百済文化が高く、そこから日本は学んだなどという話や、通称・百済観音は百済から送られたなどと、全く科学的根拠のない話が事実のように教育されていたりする場合もあるようだ。
どうしてこれほど日本に対抗心をもつのか?

最近図書館などであちらの歴史や遺伝子工学の研究書を読んで、なんとなく分かってきたことがある。

おそらく嫉妬なのだ。
うらやましいのである。
古代の、大陸で書かれた歴史書を見れば一目瞭然だが、百済と倭(日本)では比較しようがない。
倭の方がはるかに文化が発達しているし、国らしい形にもなっている。
だいたい、百済はずっと大陸の属国であり、倭の文化や往来は大陸側の国と倭である。百済などはむしろ日本の管轄下であった。

さらに、これはしばらく修正しないだろうが、弥生人やらは半島や大陸から渡ってきた人々とは無関係である。
遺伝子が何よりの証拠だ。

でも、事実が大切なのではないのだ。
気分が大切なのである。
江戸末期から明治初期にかけての、西洋人の見た日本と半島を読むと、いや、安土桃山時代でもそうだが、日本と半島は比較にならない差異がある。
少なくとも西洋人は、そう感じていた。


あるいは、それを知っている元両班としては、奴隷を解放させられ自分たちの土地や権利、名前までも奴隷に与えてしまった日本が憎いのやもしれない。

かの国には、それでもまだ両班や本貫制度は生きている。

この両班たちの、自分たちの奴隷をなくされた恨みが、今の日本批判を生んでいる。


豊臣秀吉の朝鮮出兵が話題になるが、自国人が両班政治に反対し豊臣軍に加わったものも多いことは伝えない。
対馬へ騙し討ちをかけ一気に住民の虐殺をしたことは、戦勝の歴史として脚色するが、わずかに残った武士に大敗して逃げ帰ったことは伝えない。


そうした歴史があるから、どうしても嫉妬するのだろう。


哀れな民族ではある。
今なお、支配民族と支配されている民族は違っている。
だから、本貫が今でも最重要であったりする。

もともと貧しく、文化らしいものはほとんどない場所であった。
著名な遺跡は、高句麗国に由来するものがほとんどだろう。
陶磁器があちら発祥だというが、あちらでは姓さえ与えられない差別を受けていた人たちが、日本でその力を伸ばしたのであって、あちらでできたものとは言いがたい。

が、こんなことを話ても無理なのだろう。

おそらく、現在の半島人の多くは、自国の歴史が書かれた古文書を読めないのに違いない。
だから、大学や研究所の漢文を読める人たち以外には、変だとさえ感じていないのだろう。
だいたい、事実を述べたりしたら自分の命だけでなく、家族も危なくなる。

そういう意味では哀れだ。
あと少しすると、世界がだいたいの様子を認識してくる。
その時を考えると悲惨である。
平昌冬季オリンピックと同様に。


哀れだ。
しかし、助けてはダメだろうな。
もう、嘘だけで金を巻き上げることはできないことも知らなければならないだろう。

そうしないと半世紀前と同様、アフリカ各国と並ぶ世界最貧国に、また戻ってしまうだろう。


売春を国家産業とすることは、私はどうでもよいと思っている。そうやって外貨を稼いできたのだし。
また、売春婦の方々の仕事を取るなと反対デモもある。
人権云々のきれいごとを言っている人たちは、ああした売春婦デモはどうとらえるのだろうか。
だから、私個人としては売春云々はかたいことは言わない。
法令上禁止国でも、現実にはほとんど存在している。また、それで生活するしかない方々もいる。残念だし不幸な話ではあるが。

ただし、そこで行われている不都合を、他人や他国のせいにすることは許せない。

哀れで貧しく可愛そうだとは思う。
が、自分の感覚と相手は同じ人間だから通じるものだと考えられるのは、日本人の心が豊かだからである。
嘘が悪いという感覚は、豊かな日本に住む日本人だからこそ持てる感覚だろう。
一部にはそうではないことがある。
これは、経験として断言できる。



今は、そう思っている。