その理由が不思議だ。
フォアグラは『残酷な食品』らしい。
待ってくれ。
おそらく、フォアグラがいかにしてできるかからの発想だろう。
しかし、この発想もおかしい。もしフォアグラが残酷な食品なら、庶民の我々が口に入れることのできる鶏卵は、やはり残酷な飼育によって得られた食品だろう。
なお、個人的には、こうした抗生物質漬け鶏と鶏卵が、我が国の人々のアレルギー増加にも関与していると思っている。
鶏に限らず、食べられるためにだけ飼育される動物。
考え方によれば、すべての肉は『残酷な食品』だろう。
いや、肉だけに限るまい。野菜・果物も生き物だ。
せっかく大きくなった体を、やっと実らせた子どもたちを、私たちは食べているではないか。
もし『残酷な食品』があるならば、人間の食べているものは、すべて残酷な食品である。
しかしながら、今の日本では一部団体などが、ある理由(多くは金のためと考えられる)により、特定のものを攻撃する。
場合によっては、会社からお駄賃頂戴もあるかもしれない。
古来日本人は、すべてのものを神とし、敬い感謝してきた。
これはアメリカ原住民や、満州族の祖先あたりにもつながるだろう。
現代日本教育では、これを原始宗教とかアミニズムと呼び、差別してバカにすると同時に、日本古来の宗教感、善悪感さえ破壊しようとしてきたかに思える。
この自然感は、神道とか呼ばれるような堅苦しいものではなく、自然崇拝教とも呼ぶべき素晴らしいものであったと、私は思っている。
これを神道などと呼び、あえて区別するようにしたのは、何らかの意図があるのだろう。
このような日本古来の考えからすると、すべての食品は感謝の対象なのだ。
だから、いただきます、ご馳走さまがある。
もちろん、この言葉には料理人への感謝も含まれてはいる。
が、元来は食を与えてくれたすべてへの感謝の言葉だろう。
この『いただきます』『ご馳走さま』は、世界に誇れる言葉だろう。
多くの宗教にも、食前の祈りはあるだろう。
しかしそれは、多くの場合、食を与えてくれた絶対神への祈り、感謝である場合が大半ではなかろうか。
『いただきます』『ご馳走さま』
この対象が不明瞭な言葉の中にも、私たち日本の見えない文化が生きている。
ファスト・フードの隆盛は、この文化を破壊したとも言えるかもしれない。
フォアグラから話がとんでしまった。
言いたかったのは、食べ物に残酷とか優しいとかは無いということです。

余談ですが、ホテル立食パーティーなどに出るフォアグラ。
あらっ。
というのがあったりしたかもしれません。