

先の記事を書いた後、思い出した。
なぜ、てんぐるまなどしたのだろうかと。
私のその日だけの“娘”からの強い要望だった。
ずっと、てんぐるまに憧れていたのだった。
私にとってはなんでもないそれは、“娘”の夢だったに違いない。
おそらく施設のテレビやマンガに出てくる、お父さんにてんぐるまされている姿。
それに、わずかばかりの憎しみと、それよりはるかに大きな憧れが複雑に絡み合って、彼女の中に棲息していたのだろう。

芥川龍之介の作品に『芋粥』というものがあった。
ある人にとっては当たり前の食べ物が、ある僧にとっては夢の食べ物だった。
ある時、僧の知人が目一杯の芋粥を馳走する。
ずっと芋粥をたらふく食べるのが夢だった僧だったが、いざ口にしてみると……。
そんな話だ。

“私の娘”にとって、あの時のてんぐるまは、龍之介の“芋粥”ではなかった自信がある。
しかし、なんだなあ。
多くの人にとり当たり前でも、一部の人には宝物ってあるんだよな。
てんぐるまも、そんなもののひとつだったのだ。

なんだかんだ言われるけど、とりあえず今はこうした記事も、政治的なことも書ける。
急に表に爆弾が降ってくることもないし、夜中にひとり、タクシーに怖がらずにも乗れる。
だいたい、国内どこにでも、鉄砲さえ持たずに旅行できる。
すごいなあ、日本は。
そんなことまで考えた。