
携帯電話の走りは、30年くらい前ではなかったろうか。
東南アジアに滞在していた先輩が、1リットルペットボトルくらいある黒い四角の箱を持ち歩いていたような気がする。
ファクシミリもあったが、私が出張していた上海にはまだなく、紙テープにタイプで穴を開け送信していた。 当然ながら、親切な方が途中で内容を確認、記録することを計算に入れての文章であったが。
例えば、こんな文面だ。
So know you nar ke'car knee now Lee math. It' joe.
それが今や、携帯、スマホなどで、一瞬にして世界との交信が可能になった。
私が子どもの頃は、マンガの世界でしかなかった機器が、現実のものとなったのだ。いや、現在の機器は、マンガで描かれていたもの以上の機能を有している。
こうした電子機器の発達と拡大は、便利さと同時に極めて危険なものも生み出した。
例えば、携帯でも簡単に調べられる、辞書やらニュースの類いだ。
疑うことに慣れていない多くの善良な日本人は、辞書とかニュースとか言う言葉を聞くと、簡単に信じてしまうところがある。
だから、新聞、テレビ、さらに最近のインターネット情報も、そのまま信じている人もかなりいるだろう。特に田舎では、こうした傾向が強いと思われる。事実私の田舎では、NHKは未だに神様仏様の次の位だ。
そんなNHKのグループ会社が、日本のすぐ南の太平洋海上に、直径400kmの隕石が落下した場合のシュミレーション映像を制作している。
これはSFとして見るのには興味深い。また、映像も素晴らしい。
が、こうしたことが現実に起こった場合どうするかについては、全く考える必要がない。
なぜなら、考えたところで何一つ変わらないからだ。
そこで疑問が湧く。
このシュミレーション映像は、誰のために、なぜ作られたのだろうかと。
こうした隕石の落下があった場合には、人間社会、いや地球上の生命の行く末は、考えても仕方がない。
が、こうした隕石の落下がなければ、この類いのシュミレーション映像を広く庶民に流すことは、多大な影響を及ぼす。
その産物として、あるところではニンマリとすることだろう。
地球を野球のボールとしたなら、月はその野球ボールを約30個並べた先にある、10円球をボールにしたようなものになる。
それに比べれば、直径400kmの隕石は、砂つぶ程度の大きさだ。
が、この隕石は、地球上の生命を絶やすのに十分過ぎる大きさなのだ。
だから、こんなことが起こったときのことを憂いても仕方がない。
まさに、杞憂という故事そのものになる。
こうしたシュミレーション映像で考えなくてはならないのは、それを流すことによる効果である。
まずあり得ないから放送する。
逆の見方をすれば、現実に起こっている不都合は流さない。
これはある意味常識だろう。
このあたりは、なぜ戦後ウーマンズ・リブ活動が盛んに叫ばれてきたのかと合わせて考えると、大変興味深い。
携帯は大きく進化し、一見便利になった。
と同時に、それ以上の危険を生み出した。
さらに、無くてはならないものを消し去っていく。
しがない田舎ジジイではあるが、こうした流れには、ついつい逆らってしまう私なのである。
