[浄]について考える (かなり長め) | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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昨日は[素]ならびに[除]について考えてみた。
今日は[浄]について考えてみたい。

[浄]とは、なんらかの問題があるものを取り除くことだろう。一見[除]に似ているが、[除]が本体を取り除くに対して、[浄]とは、本体に付いている不純物などを取り除き、本体は残すことだ。
換言すれば、汚れたものをきれいにするといった意味にも近い。

よく使うのが、浄水とかいう言葉だろう。


この浄水を例にとり、少し疑問点を挙げてみる。

日本における浄水には大きく分けて、浄水場のような大型のものと、浄水器のような家庭でも使われることのある小型の器具の2つに分けることができる。
いや、その前に、土という自然のろ過システムがあるが、これは割愛する。


浄水場ではまずろ過をし、砂や泥など微小な粒を減らす。さらに微生物を使って水の中にいる有機物を分解したのち、塩素系殺菌やオゾン殺菌を行って水道水として供給する。 だから、水道水の中には、ある程度の次亜塩素系物質が含まれ、私たち人間に害を有する菌はほとんど存在していない。



この水道水を、さらに家庭で浄水器と呼ばれる器具を使い、一部の物質を取り除いたりする。

おそらくイオン交換樹脂やら逆浸透膜、あるいは活性炭やらを使い、水道水に含まれる次亜塩素系物質を取り除いたりしているのだろう。

ただし、ここで非常に注意しなくてはならないことがある。

イオン交換樹脂にせよ活性炭にせよ、あるいは一部の放射性物質を含む金属を吸着するセラミックスにせよ、それには限界があることだ。
その限界値を超えて使用すると、一般の水道水よりはるかに健康に悪影響を及ぼすだろう。また、吸着した物質は極めて危険なこともある。代表的なのが放射性物質を吸着させたもので、これは放射性物質を濃縮したもの、つまりより危険なものになっている。
また、能力を超えた状態でろ過装置内の物質は、雑菌の繁殖を水道水と桁違いに容易にさせる。つまり、浄水器の中で雑菌を増やすことになってしまう。
吸着能力を超えた活性炭は、雑菌繁殖をさせる保育器になる。


また、安価なフィルターや蛇口に付けるタイプの浄水器とやらは、効果が全く、あるいはほとんど期待できないだろう。期待できるのは、取り付けた一瞬に違いない。あるいは気分的なものだ。


日本人は言葉に弱い。

浄水などと言われると、いかにも水が人間にとって良いものになると勝手に思ってしまう。

言葉の上ではそうだろうが、実際にはどうなのだろうか。

実際にどうなのかは、近くの保健所で調べてもらうことも可能だ。

一見きれいそうになった実験を目にしたりすると、水の知識が少ない場合にはコロリ信じてしまう。

よく売られているミネラルウォーターなどは、水の中に名前通りミネラルを多く含む。ミネラルが多過ぎると、場合により健康被害がでるが、少な過ぎてもまずくなる。


イオン交換樹脂によりほぼ中性になってしまった水は、下痢を起こす可能性もあるし、すぐに雑菌が繁殖するようになる。
つまり、保存が難しく健康被害を生じる可能性も高い。
フィルターを交換しない、または活性炭など、ろ過装置内の物質を能力以上に放置したなら、それこそ雑菌培養設備に変わってしまう。


浄水器を例にとったが、このように、言葉での勘違いを利用して経済が動いている現実もあるだろう。が、言葉と中身が正反対とかいう場合は、なんともはやである。




今のところは、日本の水道水はおそらく世界一安全だろう。

これは私の個人的考えであり、全く異なる考え方もあるだろうが、メンテナンスと理論的な検査を常時行わない限りにおいて、つまり、活性炭などの吸着能力や微生物の確認などをしないで、単に電解質やら電気伝導率だけを表示している浄水とかいうものには、非常に危険があり、私ならば?を付けてしまう。

あえて、雑菌の増える可能性の高いものは遠慮したいからだ。




今回はたまたま浄水器に焦点を当てたが、世の中にある商品のかなりのものは、これに似たり寄ったりだろう。

日本人の弱いところは、文字になっているものを鵜呑みにする傾向があること、テレビや新聞などに出た記事を信用してしまう傾向があること、なんとか大学教授などと言われると、それが真実と疑りを入れる余地がなくなる傾向が強いことだろう。


これは、日本の歴史や教育によるところが大きい。


しかし、そんな情緒的、お人好し、お上は正しいの日本人の多くには、大きな欠点もある。


騙されやすいだけではなく、自分が他人を騙していることに気づかなくなることだ。

ある組織のようなもの中では、半信半疑、いや嘘と分かりつつ嘘を突き通さなければならないこともあるだろう。



そんな人生は、哀れに違いない。


ただし、これはあくまでも私個人の見方だ。


嘘八百のイリュージョン世界で、幸せを謳歌しなければならないほど辛く悲しい、また哀れな世界もあるだろう。


ごくわずかだが、そうした方を、現実世界でも目にしたことがある。



そのイリュージョン世界を破り、現実を直視することは、自分を消すことくらいに許せないことのようだ。

だから、どんなに矛盾を指摘し、現実に戻るよう諭しても、一朝一夕には変えられないだろう。



非常に難しいところである。