
私はあげる派
フランス人とは、よく口喧嘩をした。
とはいえ、端から見ると漫才のような喧嘩だったろう。
とにかく、来週からフランスに行ってくれ。英語がそこそこたからなんとかなるだろう、と意味不明の理由で密入国(たぶん時効だと思う)した輩だ。
フランス語などさっぱり分からない。急遽、シンガポールで買った英語版フランス語辞書を片手に山の中に住むことになる。
チャイナの田舎に行ったときには紀元前の世界を見たが、その山あいの村では江戸から明治の世界を見た。
私はシングリッシュ、相手はドイツ語なまりのスイスフランス語で、やはりフランス語英語辞典を片手にした私のオヤジくらいの工場長。
話が噛み合うはずがない。
が、お互いに通じあうものがあるから、毎日のように声を張り上げていた。
フランスを去る日。
私は彼の家に招かれた。
当地の社長やホテルオーナーは、私をまるで家族の一員のようにしてくれ一緒にジュラで滑ったりしていたが、喧嘩仲間の工場長にはついぞ招かれたことがなく、それが初めてで最後だった。
彼は、まだ築200年くらいの新しい家なんだよ、と少し恥ずかしそうに言った。
羊が100頭くらいいて、ラパンも何羽かいた。
ジュラ山麓のなだらかな斜面にあり、相当厳しい冬の生活をする場所であるように思えた。
奥さんが自慢の手作りブルーベリー酒を出す。
はっきりは覚えていないが、素朴な味がした気がする。
私は土産に持ってきた飲み残しのブランデーと、町で買い求めた皿を差出した。
奥さんの目が潤み、旦那の顔が一緒固まった。
奥さんは、家宝にしますのようなことを言ったようだった。
旦那は、たぶん口にしたことはないであろう、飲み残し自国産ブランデーボトルを驚嘆と感謝の表情で受け取ってくれた。
私が時々飯を食べに行ったりしていたエクセレバンに行ったことは、奥さんは人生で2回しかないと言っていた。
やはり日本人見たさにたまに行くシャモニーには、行ったことがない。
遠くで羊の鳴き声がする。
子でも生まれたのだろうか。
このあたりでは、たくさんの羊が生まれたりすると新聞に載る。
日本のような全国紙も書店にはあるが、まず買わない。
ほとんどの住民が手にするのは地元紙だ。
だから町を歩いていたりすると、あっアソコの人でしょ!新聞で見たわよ。みたいに声をかけられることもある。
フランスのクリスマスはノエル。
ホテルオーナーは、日本食と思っているプノンペン料理が好きなマダムだった。
何回かプノンペン料理を一緒に食べに行った。
ノエル少し前。
私達が食事しているところにイタリアの男が寄ってきて、ずいぶんとストレートにマダムに夜のお誘いをした。
ってやんでえ。
俺という日本男児を前にして!
と内心思ったが、相手は私を子どもとしか見ていなかったのかも知れない。
マダムは、流暢なイタリア語で断ったようであった。
そのプノンペン料理屋のマダムは私と同年代で、まだ独身。
家族も全員知る人になる。
今はどうしているだろうか。
ここは寒いからリヨン、できればマダガスカルあたりに行きたいような話をしていたが。
先日Googleマップで見た際には、ホテルもレストランも、昔と変わらない風情に思われた。
今日あたりは、一面の霧で被われ、長さ数メートルのつららができているだろう。
ダイヤモンドダストが比較的身近な世界。
たぶん今は、1日たりとも耐えられないかも知れない。
しかしなあ。
本気で口喧嘩する気力や体力さえもなくなっている。
まあ、仲良く真剣に喧嘩するには、相手を選ぶこともありますが。
フランスの食事。
確かにロンドンとは比較できまい。
が、ノエルなどを除けば、田舎フランス人の生活は実に質素だ。
記憶の限界である、昭和30年代初期の雰囲気がある。
日本人より日本人的なものを、当時の彼らの中に見出だす、今の自分がいる。