
私は一生不倫相手派
シンガポールに滞在していた方なら、おそらく何度か足を運んだことがあるであろう場所のひとつに、ニュートン・サーカスが挙げられる。
サーカスと言っても、空中ブランコやライオンが出てくる、あのサーカスではない。
イギリスの植民地であったシンガポールでは、いまなお大英帝国の名残をあちこちに見つけることができる。
このサーカスという言葉もそのひとつで、日本語だとロータリーとかいうものに近いだろうか。
日本にあるのかどうかは知らないが、信号機の無い交差点。いや、正確にはタコ足交差点を意味する。
最初の頃は、この信号機無しのタコ足交差点をうまく走れるかどうかヒヤヒヤしたものだった。
こうした大きなサーカスの隣には、決まって広いキャンティーン(おそらくフランス語由来だろう。現地の屋台みたいもの)がある。
ニュートン・サーカスにあるキャンティーンはシンガポールを代表するもので、ニュートン・サーカスと言えば、むしろこのキャンティーンを意味することが多かった。
日本から○×常務が来る。
いつもシャングリラやハイヤットばかりでは飽きるだろう。
島。お前、どっかいいとこ知ってるか?
うーん。たまにはビックリで、ニュートン・サーカスなんてどうですか?
馬鹿やろう。俺を首にしたいのか!
まあ、そんなローカル色豊かな屋台である。
現地駐在員たちには人気のある店に、Lがやり繰りしている店があった。
看板娘の彼女は、その前に不幸な最期をとげた姉様格と同様の苦しみを抱えながらも、明るく接客をしていた。
一度だけだが、オーチャードの飲み屋でばったり会い、その後人生相談みたいことをしたことがある。
彼女の彼が日本人であろうことは、噂には知っていた。
細かいことは忘れたが、小さな島から出て行くべきか、親を守っていくべきなのか。
確か、そんな話だった気がする。
その時、私がどんなアドバイスをしたのかは、はっきりは覚えていない。
ただ、あなたが日本で日本人として暮らすのは、相当な覚悟が必要だし、あなたが知らない辛さも味わうことになるだろう。
そんなことを言った気がする。
日本に帰って来て何年かして、あるバラエティー番組を見ていた。
と、その番組の主人公に見覚えがあった。
まさかと思ったら、やはり彼女だった。
私のアドバイスの影響かどうかは分からないが、まだ看板娘をしているようだった。
塀の内側で暮らしたこともある、元その道のプロだった、安部さんのシンガポール紀行の主人公になっていた。
安部さんは彼女の家にまで招かれ、一緒に麻雀をする仲にまでなった。
が、取材最後の日。
チャンギ空港には、彼を見送るはずの彼女の姿はなかった。
安部さんの目に涙が滲む。
これは約束を守って欲しいと願った安部さんの、彼女へ向けた涙であったろう。
彼女は、もはや私など及ばぬほど大きくなっていた。
シンガポールは、おくての私の青春の場所でもある。
まだ書けない内容も含め、学生時代の灰色を吹き飛ばしてくれた、プラスの意味では一番想い出深い外国である。