
モディリアーニに関してはフランス在住のめのおさんが詳しいので、本格的な話は先輩にまかせて、私は妄想世界で遊ぼう。
モディリアーニといえば長い首がよく知られている。
が、私にとってより印象的なのは、その目の描き方だ。



日本人でいうなら、黒眼にあたる部分が無いか、ほとんどわからない。
さらに、こんな絵もある。

幼い子の方の目は、どうみてもアンバランスだ。
このアンバランスは、何を意味しているのであろうか。
ある説によれば、なんらかの欠如あるものは神との繋ぎ手とされたらしい。
その多くは、片方の目だけ碧眼であったり義眼であったりする。
その片方の目は人の目ではなく、神の目であり、そのような目を持つものは神の使い手、つまり天使なわけである。
天使という言葉はキリスト教的発想だが、日本でも似たり寄ったりのことはあったし、今なお似た風習が残っているところもある。
これを深堀りするつもりはない。急に現実的、生臭い話になるからだ。
さて、私がここで無理にくっ付けてしまうのは、モディリアーニのあのガチャ目の少女とエヴァンゲリオンである。
そもそもエヴァンゲリオンとは何だろうか。
インターネットを見ると、ギリシャ語由来のラテン語のような説明がある。
とすると、エヴァンゲリオンとは、エヴァン・ゲリオン=エワン・ゲリオンか?
エヴァまたはエワとは、日本などではイヴと呼ばれる、ユダヤ教、あるいはその息子のキリスト教、またキリスト教の弟のイスラム教において、最初の女イッシュまたは、ewaのことだ。
この女ewa は、蛇hewyaにそそのかされて禁断の実(日本では一般的にはリンゴ)を食べてエデンの園を追われてしまう。
この女と蛇は、発音的に似ている。
この物語を制作した民族は、日本民族に似て実にだじゃれ好きだ。
それは最初の1ページを読むだけで分かる。
というか、最初の方は、だじゃれの嵐である。
だから、女と蛇が同じもの、同一人物であることを暗示させていても、けして不思議ではあるまい。
女と蛇とは、人の二面性、宗教的な正邪を持つことを描いているのかも知れない。
しかし、邪なる目のない女は清さのみを見、邪なるものを見る目がない。
だから、この少女もキリスト教的な、あるいはマニ教的なエヴァンゲリオン(福音)を宿しているものなのだ。
と、嘘八百を考えた。
そういえば、アゼルバイジャンあたりには、片方が金色の目を持つ猫がいるという。
おそらく、アララトあたりに棲んでいた猫だろうな。

予想より1年早く、冷たい冬がやってきそうだ。
今年早春にオーロラを見に行った人は、かなりラッキーだったかも知れない。
あと数十年間は、ほとんど見られなくなる可能性もあるからだ。
東北の復興を急がなければ。
まだ、復興は初めの1歩さえ踏み出していないだろうから。
