マナガツヲ ああマナガツヲ マナガツヲ | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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上海時代の話である。

上海に滞在する日本人は100人とか200人とか言われていた時代で、今の若い中国人の方は知らないだろうが、外国人の使う元と中国人が使う元は印刷そのものが違い、外国人が使うそれは兌換券と呼ばれていた頃の話である。

表向きは兌換券の1元も中国人の使う1元も同じ価値だが、実勢は全く違っていた。

とにかく中国人は自国だが、自国にある外国人用ホテルには泊まれない。いや、入ることさえできない。これはホテルに限らず土産物屋も同じで、自国の高級売店には入ることさえできなかった。万が一入れたとしても、兌換券がなかったなら何も買えない。




一方、外国人が外の店を覗くのは歓迎されなかった。
いや、田舎では指定地域以外には出入りが制限されていた。中国人は自国内とはいえ勝手には移動できない。例えば東京から横浜に行く場合には、それなりの許可が必要だった。おそらくこれは、今も変わらないはずだ。例えば普通の中国人は中国本土とはいえ、シンセンには入ることはできないだろうし、本土からホンコンに行くには、かなりのコネが必要になることもあるだろう。


中国とはもともとが賄賂、コネ国家に近いだろうから、これは自然なことだ。



話を戻そう。

外国人の行動が非常に制限されていた時代には、外に行っても、お金だけではあげパンやら地元タバコは買えない。なぜなら、配給券が必要だからだ。

今はこうした配給券は、最近のシンセンあたりにはなかったが、地方ではどうか知らない。


ちなみに、外国人は大変少なかったので、頼みもしないのに影が後ろをガード?してくださっていた。
また、ご丁寧に、私より先に手紙を読んでくださってもいた。

友人が送ってくれたアリナミンは、約3ヶ月熟成させてくださり、私はいろんな証明書にサインしながら受け取ったこともある。


そんな、今の上海とは別世界の時代のことだ。





工場に行くと、私だけの昼飯を作ってくれるおばちゃんがいた。

小ぶりの洗面器で、かなり白っぽいご飯を炊いてくれた。

おばちゃんの名前はアリさんといった。当時還暦近かったように感じたが、意外に若かったかも知れない。

アリおばちゃんは“チーラマ?”という朝の挨拶をして、時々上役から叱られたりしていた。しかし、昔から使っている挨拶の言葉がなかなか抜けず、私を見ると“ニーハオ”とか“ニーツァオ”ではなく、やっぱり“チーラマ?”が出た。




その意味が分かってから、私は小学生の時に社会の先生から聞いた話が冗談では無かったことを知った。

まあ、メシクータカ?
そんな意味の言葉だ。

確か中国共産党の第一書記だか首相の提言で、ニーハオを挨拶の言葉としたような気がする。




さて、アリおばちゃんは毎日、私だけのために特別きれいな洗面器で飯を炊いてくれる。

おかずは、漬物に似たようなものや、揚げ物に似たようなものだった。

が、ある時、洗面器のご飯の上に15センチメートルくらいのマナガツヲが乗っていた。

いつもとは違うメニューに、アリおばちゃんにこう言った。
もちろん、多少のお世辞もあったが。

ハオ・チィー。


アリおばちゃんは、満面の笑みを見せた。

さあ、これからが苦難の1ヶ月だった。
翌日から、毎日毎日マナガツヲである。

それも15センチメートルくらいのかわいいヤツだから、なかなか骨が目立つヤツなのだ。

昨日も、今日も。

ああ、明日もかあ。

アリおばちゃんの自慢気な顔を前にして、もう嫌だとは言えない。だいたい、当時上海の工場でマナガツヲを調達するのは、かなりのことだったろうから、その好意を足蹴にはできなかった。

もちろん、和平に戻ればそれなりの中華料理があったからこそできたことではあるが。





しかし、もう今はあの生活はできまい。




が、アリおばちゃんの笑顔とともに、時に洗面器飯が懐かしくもなるのだった。



マナガツヲ ああマナガツヲ マナガツヲ



である。







なお、滞在許可の関係でたまにホンコン(当時はイギリス領)に戻らなければならなかった。

民航ではなくキャセイあたりだったと思うが、ホンコンへの機内食にでたパンに涙が出そうになった。

その時のパンは、油っぽくなく、世界一うまかった。





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