
多少の誇張と創作はありますが、半分以上は本当にあった話です。
それは、私がこの村に引っ越してきてそれほど経った頃ではありませんから、数年前、どんなに昔でも10年は経っていないでしょう。
かなり腰の曲がったおばちゃんや、まだ小学生か中学生くらいの伴を連れ、その方たちが軒々を回っているのは知っていました。
と同時に、まだ何も分からぬであろう子どもを引き連れたり、歩くのさえ困難そうな老婆を連れ回す後ろ姿に、憐れみ以上の怒りに似た感情が湧いてきたりしていました。
そんな方々がピンポーンすると、“いやあ、寒いのに大変だね”などとやり過ごしていたのです。
その手の勧誘に声をかける人など、滅多にいなかったからでしょうか。
毎週のようにピンポーンが続きました。しかし、いつも通り、ふにゃらふにゃらで、一番重要な勧誘には冷たいジジイでした。
それは春先のことだったと思いますが、どうもこのあたりの支部長?クラスらしい、いつもとは違ってスリーピースに身を纏った、私よりは少し年輩の方と若手ペアがピンポーンです。
彼はまず、庭木を褒めあげます。このあたりが一枚、二枚違うところです。
世間話が一段落したところで、やおら本題に入りました。
ご主人はカミを信じますか?
普通なら、いや最近髪は勝手に家出してしまい戻って来ませんし、カミさんも放浪癖が身についてしまいましたから、一重には信じられませんなあ。
とでも言うところですが、相手はきちんとした身なりで、わが息子娘同様の庭木を褒めてくださいましたから、真面目に答えます。
すみません。あなた方のおっしゃるカミとは、何、あるいは誰のことですか?
おっ、食い付いたぞ!の思いが、わずかに相手の目と口元に現れました。
はい。それはキリスト様のことです。
えっ?!キリストはもう現れたのですか?
彼は少し怪訝な顔をしました。
はい。イエス・キリスト様は現れ、今も私たちを見守っておいでです。
あらっ。イエスがキリストだったのですか。ほう、知りませんでした。で、イエスというのはナザレのイエスでしょうや、それともクムランの義の教師でしょうや?
相手の目が少し泳ぎます。
それは、ナザレのイエス様です。イエス・キリスト様です。
はあ。イエスがキリストだったかどうかはさておき、まだ私にはカミとかは分かりませんね。
男の目が、元の落ち着きを取り戻しました。
どうでしょう。カミのお言葉をお聴きになりませんか?
えっ?カミの言葉というのは、イエスの言葉ですか?
はい。イエス様のお言葉を伝え、皆の幸福と世界平和を願うのが私たちの役目です。
ほう。イエスの言葉を!
素晴らしい。ぜひ、聞いてみたいですね。
男の口が曲線を描き、連れの若者も満面の笑みを浮かべました。
しかし、すごいですね。日本にイエスの言葉を話せる方がいるとは。
私は感慨に、ひどく感心した顔をしました。
男の目がまた騒つきはじめます。
私が続けます。
カマーン ズマーン ヒキータ?
こんな発音でよろしいでしょうか?
男の目がぐらぐらと揺れ、口元がきつく締まりました。
また、私が続けます。
すいません。これじゃヘブライですね。イエスは確かアラムのはず。やはりかなり発音が違っていますか?
しかし、嬉しいなあ。生きているうちにアラムを聞くことができるなんて。
いやあ、人生何があるか分かりませんね。
初老の男が、やっと口を開きます。
すみません。今何とおっしゃったので?
ですから、あなた方はイエスの言葉を聞かせてくださるわけですよね。実はちょうどイエスの話していたであろう言葉の基本を学んでいたところなのですよ。
ヘブライという人もいますが、場所時代から考えると、私はアラム語を話していた確率が高いと思っているんです。しかし、現在はほとんど消滅してしまった言語。それを聞けるとは、私はなんと幸せなことか。また、イエスの使っていた言葉がヘブライかアラムかも分かるかも知れません。
ああ、なんと素晴らしいことか!
私は涙目になりそうなくらい感激してみせました。
いやあ、ご主人。
おっしゃることが今一つ分かりませんが、イエス・キリスト様のお言葉は日本語でお伝えします。
初老は少し声を小さくしたように思えました。
はあ?!?????
なんで?
イエスの言葉が、なんで日本語になるの?
ぜひ、イエスのおっしゃった言葉をお聴きしたいですねえ。 イエス様が見守っていらっしゃるのですから、そのお力で話していただけませんでしょうや。日本語にすると伝わらないこともあるでしょうし。
いやあ、その~。
若者が後ろから初老に近づき、なにやら耳打ちしました。
ご主人。話の途中で申し訳ございませんが、急用ができまして……。
大変失礼ではございますが、すぐ戻らねば。
はあ。確かに失礼かも知れませんね。そちらから話を始めて、自分都合でサイナラですか?カミはそうしたことを許される寛大な方でいらっしゃるようですね。しかし、雪降る中を足を引きずる老婆を使徒に使わされるよりは、まだいいでしょうが。
初老の男たちは、早歩きで門を出ていきました。
その背中からは、喜びや平安ではない感情が沸騰していました。
いやいや、気のせいだったかも知れません。
カミの使徒は、そんな下卑た感情を持つはずがないからです。
それ以降、近くで彼らを見なくなりました。
私は、カミに嫌われてしまったのでしょうか。
うーん。しかしなあ。
よくあるんだよなあ。
私はブッダの生まれかわりだの、イエスの生まれかわりだのとおっしゃる方が、流暢な日本語や英語という未来の言葉で話されることが。
ブッダなりイエスなりの生まれかわりと分かるのですから、記憶があるのでしょう。だったら無理して日本語や英語などをお使いにらずに、サンスクリットやアラムで話していただきたいものです。
それは、古代語の研究をする方々にとっても朗報のはずですから。
なんで、日本語などの未来語で話すのでしょう。
おそらく常人には分からぬ、深ーい理由でもあるのでしょう。
しかし、残念ですなあ。