今日は、『古事記』とならび現存する神話歴史がらみの書物としては最も古い、『日本書紀』について考えてみます。
なお、本日は野暮用のため、コメ返しは遅くなりそうです。
悪しからず。
日本の神話や歴史に関する書物としては、所謂聖徳太子(以下、本人には申し訳ありませんが、聖徳太子とします)の時代までは、『旧辞』あるいは『帝紀』と言われる書物があったようです。
ただし、どうも『古事記』の完成前後に無くなってしまったようです。
記紀の表現内容から考えるに、あるいは没収、焼却されてしまった可能性もなくはありません。
(従来の歴史では、別の理由で無くなったことになっています)
ところで、『古事記』がかなり素朴な表現で、場合によっては天皇の尊厳を侵すようなものさえ含まれている一方で、そのすぐ後に作られた『日本書紀』は、明らかに中央集権的なものとなっています。
その代表が、ヤマトタケル神話に見られます。
『古事記』のヤマトタケルは実に人間的で、時にすね、時に泣き、時に甘えたりしています。
また、ずいぶん汚い手で相手を倒したりもします。
さらに、天津御子であるヤマトタケルでさえ、地元の豪族(本文では地方の神)に敬意を表したり、逆に地元神を軽んじた故に、命を落とします。
これに対して、『日本書紀』のヤマトタケルは、天皇の僕(しもべ)である、感情を表さぬ職業軍人になっています。
これは、『古事記』の完成以後『日本書紀』が著されるまでに、中央集権制度が強固になっていったことをうかがわせます。
また、『古事記』ではたいへんおおらかで直接的な表現だった性にまつわる話も、『日本書紀』では直接表現を避けかなり上品になっています。
なお、『古事記』で言い漏れましたが、編集をした太安万呂の前文は、なかなか興味深いものです。
私はこの前文の中に“実は言いたいんだけど、言えないこともあるのよ。分かってちょ”みたい感情を感じています。
『日本書紀』には、注釈、補足などが多いのですが、“天の岩屋”の補足“一書に曰く”にある鏡の記事はたいへん興味をそそられます。
これは神鏡に関するものなのですが、一部好事家の間では、それこそユダヤ教に直結する証拠と騒がれています。
詳細はインターネットなどにも載っていますが、もしインターネットにあるような神鏡ならば、確かにその確率はたいへん高い、いやほぼ間違いないでしょう。
でも、これは天皇でさえ触れてはいけないものに相当します。
つまり、インターネット情報は、眉唾物というわけです。
真偽を知りたいなら、閻魔様に挨拶をしてからの方が、良いでしょうね。