
告白という言葉は、おそらく明治維新後の、西洋文化取り込め政策あたりに作られた言葉じゃないかなあ。
違ってても、このまま話を進めます(独断と偏見である)。
で、この告白というのは、おそらく唯一無二の神に対して行われるのが本来の姿なのですよ。
その代理として牧師さんが聴いたとしても。
つまり、告白とは相手が神なわけです。
これは、欧米の裁判などを見れば分かります。
証言などをする時には、聖書に手を置き、神に真実のみを話すことを誓います。
ここが、日本と大きく異なります。
日本の国会証人喚問において、証人が誓うのは誠意です。
だから、その人の誠意がいいかげんならば、いや、その前に、誠意などちゃんちゃらおかしいとなれば、嘘八百なんでもありなわけです。
欧米における神は、私を含めて、多くの日本人には理解できますまい。
神は、旧約聖書に出てくる名前(英語訳でYHWH)からすると、自分自身であるとも考えられます。
つまり、神に告白するとは自分に嘘をつくな、との解釈もできるわけです。
ところで、ずいぶん昔のことになりますが、フランスの山奥に滞在していたことがあります。
そこは、カトリック系の町でした。
若者の多くは教会なんて、滅多に行かないよ、なんて言っていました。
が、彼らは、土日には肉を食べなかったのです。
それが宗教的なものからくる習慣だと意識しないくらい、神が生活の中に入りこんでいます。
また、現地の社長とは家族の食事に招待されたり、スキーに行ったりしましたが、山登りをした際には、奇妙な目で見られたことがあります。
それは、私が(キリスト教の)神を唯一無二と思っていないからでした。
彼には、私が理解できないということでした。
海外駐在員には、次のような暗黙の取り決めがあります。
まずは、宗教・政治の話には触らない。
その国の文化を尊重しろ。
甘い言葉を信じるな。
さらに、極端なことを言えば、誰も信じるな。
そういう前提のある中で、この社長とのジュラ山中での会話は、よく覚えています。
ところで、海外に住んでいると、日本人旅行客は、だいたい分かります。
それは、彼らの目が、濁っていないからです。
別の言い方をすると、警戒心に欠けている目をしています。
これがいいことなのか、悪いことなのかは、私には判断できません。
話が飛んでしまいました。
告白とは、自分自身への契約であり、多くの場合において神との契約です。
つまり、日本のような嘘を突き通したところで、生き方とその後の世界に影響を与えることのない告白とは、重みが違うということです。
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えっ?
ネタと全く関係がない?
あちゃあ。
また読み違えてしまったようです。
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今日は9.11。
何か書こうとは思ったのですが、あまりに分からないことが多すぎて、まとまりませんでした。
ただひとつ言えることは、あれによって戦争が始まったということです。