確か Killing Field という映画だったと思う。
それは、クメール・ルージュの話。つまり舞台はカンボジアだ。
この映画は、主役を務めた男優が、アメリカで変死(たぶん殺害)したことで知っている方もいるだろう。
この映画には、生きるためにはなんでもする、に似た映像が出てくる。
また、ピラミッドになった骸骨の山も、屍の沼も出てくる。
しかし、私が最も印象に残っているのは、こんなシーンだ。
農村でミミズやバッタを食うような生活を強いられてしまった、かつては裕福だった父親が、娘に隠していた米ドルを与え、国外に逃げ出させようとする。
が、その10歳くらいのわが娘は、すでに国の立派な兵士になっていた。
娘は即座に、父親を犯罪者として、近くにいた上官に報告する。
と、息をつく間もなかった。
上官は、ためらいもなく、娘の父親の頭に鉛の玉を打ち込んだ。
娘にとってその男は父親ではなく、敵国の紙幣を持った、非国民の犯罪者でしかなかったのだ。
この映画には、いろいろ考えさせられるところがある。
が、この場面ほど重く残っている場面はない。
父親にとっては、娘を“正しい国”に行かせたかった。
一方、娘は“国にとって正しい”ことをした。
正義とは、そのようなものだろう。
つまり、百人いれば百人の正義がある。
若い頃、プノンペンからフランスに逃げてきた姉妹と知り合いになったことがある。
“難民”である彼女の父親は、かつては知事級であったようだ。
今なら-20度位になるだろうあの町で、今も“日本料理”という名前の中華料理を作っているのだろうか。