
私はあったら読む派
情報化時代なる言葉を知ったのは、私が中学3年生の時である。
私の父は、私に“勉強しろ”という言葉を使ったことは一度もないし、また、私自身オヤジに何かを尋ねた記憶もない。
が、そんなオヤジが、この情報化時代ということに関しては、おそらく生涯一度のアドバイスみたいものをくれた。
私はそれを、校内の弁論大会だかなんかで発表したのだが、何故かは忘れたが、その大会には村ばかりか、県レベルの議員さんかいらっしゃっていて、発表後になにやら言われた記憶がある。
私はその発表概要をまだ覚えているが、それは将来の情報化時代における落とし穴への警告だった。
実は、この部分は、99%がオヤジのアドバイスによる作文である。
だから、お偉いさんが口を開けたのは、私にではなく、オヤジに対してだ。
では、その落とし穴とは何か?
それは、情報の氾濫による情報の取捨選択の難しさである。
40年前に書いた文章だが、ある程度は今でも通用するかも知れない。
情報というのは、たとえそれがまっとうな手段で収集されたものでも、使い手によってはいかようにも変質できる。
また、誠意とかポリシーとかいう形に見えないものを追いやれば、加工さえ可能だ。
だから、それを利用する一般市民である我々は、情報の分析をする前に、まず情報の選択能力を高めなくてはならないだろう。
だいたい、そんな内容である。
自分で言うのもなんだが、私は中学生の時は、今でいうイケメンであり、山あいの村のなかでは、そこそこの学力と体力があったから、結構もてる方だった(自分で言うかい!と言わさんな)。
が、この発表は、しごく評判が悪かった。
何さ言ってんだが、さっぱり、わがんねがったぺよ。
と言うことである。
まあ、当時の田舎では仕方あるまい。
しかし、こんなことは、私が生まれるはるか以前から、危惧する人は危惧していた。
芥川龍之介の小説でも、読んで見ますかな。
三船敏郎がいい味出してる、古い映画がありましたなあ。
あれっ?
どこか、こんこん島に似てきてしまった。
さて、尻を隠さず、穴に逃げますかいな。
