というのは、日本で出版されているものは、原典が何かわからないほどに変形させたうえ、オブラート包み、さらに衣をつけて、砂糖たっぷりの天ぷらにしてしまうものも多いからだ。
よい例が、グリム童話だろう。これについては、すでに何冊かの本が出版されていたと思う。
ところで、おそらく世界初のおとぎ話である“竹取物語”は、それらと比べると、実に機知に富んでおり、また、美しい言葉が並んでいる(グリム童話などを原典言語で読みもしないのに、こうした意見を言うことは大変不合理ではある。また、イソップ物語は、おそらく竹取物語に劣らぬ機知、言葉遊びがあることだろう)。
ジョージ・オーウェルの“動物農園”は、高校時代、英語の副教材だった。
この時、初めて童話や寓話というのは、子どものためではなく、大人のために書かれているのだと知った。
が、まだ当時は、童話、寓話がいかに決死の思いで書かれているのか、いかに多くの虐げられた人たちに喜びを与え、また、軋轢に耐える人たちにニヤリとした笑いを与えているかまでは、ほとんど考えが及ばなかった。
今日は母の通夜である。
母の死は、ある意味では覚悟していたものではある。
だから、悲しみと同時に“よく頑張ったね。そして、ありがとう”と、素直に思う。
が、今の、これからの、多分晴れることのない(かつては、外交とは国際親善のために似た、幼稚な考え同様、明かりは、解ける糸口は必ずやあると考えたこともあったが)澱みが、いささか重い。
まあ、そうは言っても、梅雨に秋晴れが続くはずもなく、ボケ爺やっていくしかありませんなあ。
もうすぐ田舎に着きます。
で、改札(機械ですが)ですごいもの?をもらいましたぞ。
東京では、一生あり得ないでしょうね。
