母の話 その2 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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母は“女は本など読むな!”と叱られつつも、陰で学習をしながら、ど田舎にあって旧制女子高に行ったりしているし、そこでは常にに1番か2番くらいにいたようだ(本人曰く)から、田舎の才女だったのだろう。 

若い時には、当時の感覚としては不届きなことに、小説家などというヤクザな職業(もちろん、当時の田舎の感覚では)を夢見て、東京にも暮らした経験があるようだ。 

前回、ダンスに誘われた云々の話をしたが、それはこの時代のことらしい。 


小さい頃、母の宝物を何度か見せられたことがある。 
その中には、竹久夢路風の手書きの絵が何枚かあった。 

例の水着姿の写真もそのひとつである。 


また、戦時中は臨時教員のようなこともしていた。 
昔からよく聞かされていた教え子の名前を、今は東証一部上場企業の社長の中に見つけることができる。 

なお、母への年賀状の中に、素晴らしいヒマラヤの山並みを撮ったものがあった。 

私はその写真ははっきりと覚えているが、差出人の名前は明瞭には思い出せない。 
ただ、もし私の記憶に誤りがなければ、日本では、山の写真家の代表に挙げられる方に似たお名前だった気がする。 


しかし、記憶違いかも知れない。 



だが、私の知っている生の母の姿は、田んぼで草取りをし、夜遅くまで縫い物をし、子どもを溺愛するがゆえに涙もろく、また、時にヒステリックとさえ思える、しかし、それを外には出さないものであった。 





二つ下の弟ができてからは、私は祖母と寝るようになっていたから、小さい時に母と父の間で川の字で寝た、という記憶は消えている。 




しかし、たまにの町への買い物などは、よく一緒に行った。 

それは、母を愛する我が子を見せることで、母は自分の心のバランスをとっている、ということはかなり早い時期から気づいていた。 


だから、そんなこともあり、私は中学生半ばあたりから、母への嫌悪感に似たものを増大していった。 

つまり、泥にまみれながらも歴然とわかるお嬢様気質と、形式的に感じる愛情に反発をしたのである。 



もし私があと少し大人だったなら、あるいは計算高かったなら、あるいは、もっと優しかったなら、また、人の苦労を知っていたなら、私ができなかった親孝行もできていたであろう。 



一方私は、純粋培養のありがたみを感じるどころか、私は自分ではないところで作られている自分に、この上ない怒りさえ感じていた。 




だから、私が中3の時に県で数人くらいしか得られない“栄誉”を与えられた時には、私はそれをゴミ箱に捨てた。 


(その後、母がゴミ箱から取出し、保管したらしい)





まあ、親にしてみれば“なんという子だ”となるだろう。 




が、私が100回生まれ変わっても、あちらの方面以外勝ち目がない父は、そんな私を“ひとつの人格”という目で見ていた。 




母の気掛かりが、いまだにヤクザな生活をしている私であることは知っている。 


だから、最近はやっと上手い嘘もつけるようになってはきた。 



が、母も最近は仏様に近い方になっていたから、あるいは“上手くだまされて”いてくれたのかも知れない。