
スリルと安心感。
一見、相反するように見えるこの2つは、実は同じである。
スパイ映画なりアクション映画なりを観ている観客は、そのハラハラドキドキに酔っているが、それはおのが人生の穏やかであるという前提があるからこそ、また決して映画の主人公のようにはならないという確信があるから、遠慮なくキャーキャーと黄色い声をあげ、映像に酔いしれることができるのだろう。
もし、現実に映画や小説に出てくるような場面に出くわしたなら、その道のプロでもない限り、早くその場を切り抜け安心感を味わいたいはずだ。
若者がスリルを味わうと称して、いささか危険なことをするのは、実はスリルを味わいたいのではなく、自己満足や見栄、蛮勇であることが多い気がする。
少なくとも私の場合はそうだった。
機関銃を持ちガチガチになっている若手兵士に、つかつかと寄って行き、May I smoke here? などとからかうようなバカは、年をとったならできないし、考えもしなくなる。
が、若いとそれがスリルを味わうことだ、などと勘違いしてしまう。
若いと、それは単なるバカな行為であるとは思えない。
本当に危険だと感じた時には、その状態から脱出あるいは危険回避するために、全神経をそれに注力する。
そのために、1秒が5秒にも10秒にも感じられる不思議な体験をする。
私の場合はそうだった。
その間は、スリルを味わうとか安心感とかなどという思い、考えは全くなく、ただひたすら危険回避、対応に頭と体が恐ろしいほどの力を発揮したのである。
スリルとか、安心感を感じるのは、そうした動きのあったしばらく後の話だ。
さて、ここでいつもの如く脱線しよう。
最近のサスペンスドラマや小説はさておき、神話、伝説でスリルといえば、英雄伝説だろう。
ところが、日本にはこの英雄伝説が極めて少ない。
有史時代になってからの、特に戦国時代の武将の活躍を描いたものは多いが、飛鳥時代以前の英雄と言ったなら、ヤマトタケルくらいしか思い浮かばない。
このヤマトタケル。
もちろん複数の人物をまとめて、一人の人格をつくりあげたか、ある理由から創作したものだろう。
面白いのは、古事記と日本書紀で、全くと言ってよいほど性格が異なることだ。
日本書紀のヤマトタケルはランボーのような性格だ。しかし、古事記の彼は、時に愚痴を言い、おばさんに泣き付き、時に強がったりと、実に馴染みやすい。
私は、古事記のヤマトタケルが好きである。
なお、これは古代には国・地域を問わず見られることだが、“だます”ことは、かつては“誇らしいこと”だったのかも知れない。
このへんの道徳観は、現代とは違うようにも思える。
いや、今でも1万円だますのはチンケなヤツ。
1億円だませば、大悪人。
1兆円だませば英雄かも知れませんがね。