
女が化粧をするということは、自分に欠点があることを自ら認めていることである。
それゆえに化粧とは、その欠点を言葉通り埋め覆い隠してしまう行為に他ならない。
もし、素材に自信があるのなら、化粧などは必要がないからである。
さらに、化粧は低コストで高い買い物ができる可能性を多分に含んでいる。
いや、それを期待している場合も少なくない。
だから、化粧とは立派な経済行為でもあるのだ。
だから世の女性諸氏は、必死になってお絵かき、壁塗りの学習に、必ずと言っていいほど時間と金をかける。
家の壁紙が剥がれているのが気にならなくとも、ファンデーションののりが悪いことにはひどく敏感だ。
そしてその場合、ファンデーションの品質が問題化され、本来の素材を考慮したりはしない。
いや、仮に頭をかすめても、それは無視すべきものであり、間違っても他人が指摘すべきものではない。
さて、このように化粧とは、故人も言っているように『女の隠れた戦闘服』であるからして、本来は他人に見せてはならないし、また見られることは恥ずべき性質のものなのである。
が、昨今の電車内でのあけっぴろげの化粧を鑑みるに、化粧は戦闘服ではなくなってきたようだ。
というのは、戦闘服を着ずとも、世の女性諸氏が強くなり、隠れてする必要がなくなったからだ。
これは、戦後教育と銀行業務短縮に大きく関係するが、ブログネタから大きくズレてしまうから割愛しよう。
さて、石が飛んこないうちに、お開きとしようか。