
最近、酒造技術が進歩しましたから、本物のビールを口にする機会がたいへん少なくなってきています。
学生時代は、酒とは切っても切れない研究室にいました。
例えば、あるウィスキーメーカーに行き試飲して、復習用に琥珀色のボトルをもらって、さらに風味、こく、舌ざわりなどを克明にレポートすると単位がもらえたりもしました。
そのせいばかりではありませんが、エチルアルコール摂取量も、アルコール耐性も、質も、当時のが今より酒に関しては、一桁二桁上でした。
最近、カレーのプロから芋焼酎の旨さを教えられたせいもあり、一層ビールとは遠ざかっています。
ですから、ここからのお話はずっと昔、まだ中国に文化大革命の爪痕が残っており、公開処刑があった頃のことです。
初めて私が中国の土を踏んだのは、30年くらい昔。
ちょうどブッシュ大統領(オバマ大統領の前のブッシュではない。その父親)が上海に降りたった日でした。
すぐとなりに大統領専用機と、さらにそっくりなもう一機が止まっていました。「安全のためかなあ」と話しあったものです。
私たちは、ブッシュ大統領が直前に使った赤絨毯付きタラップと赤絨毯の道を進みながら、上海の土を踏んだのです。
同行した人が、日本文人画界の重鎮でしたので、「国賓並みだなあ」なんて言いながらタラップをおりたものです。しかし、今考えると、当時は上海空港には、それしかなかったのかも知れません。
私は海外には相当行っており、飛行機に30回くらい乗るまでは記録をとったりしていましたが、途中からやめました。
上海・香港間のような短いものを含めれば、多分100回くらいは飛行機に乗っていると思います。
しかし、自分のための純粋な海外旅行というのは、これが最初で、おそらく最後でしょう。
仕事以外で海外に行ったことはありますが、それらもやらなければならぬことのためであり、観光ではなかったのです。
さて、私たちの目的地はただ一つ。
黄山です。
黄山というのは、中国に四大名山(五大山、九華山、普陀山、峨眉山)というものがありますが、黄山を見たなら、それら四大名山も色あせると言われている山々のことです。
まさに、仙人が住んでいてもおかしくないような奇岩、絶壁の山並みが続きます。
桂林ファンの方には申し訳ありませんが、全くレベルが違い、何度か桂林を訪ねている方も息を飲む絶景でした。
当時は、まだ、外国人慣れしていない中国であったためと、黄山がユネスコの世界遺産になる前でしたから、そこにたどり着くまで、中国に入ってから2泊という行程でした。
これを話すと長くなりますから、割愛しましょう。
黄山の麓から展望台までは、頼りは足だけ。
今はロープウェーがあるようですが、当時は何万段という階段を、一歩一歩足でかせがなくてはなりません。
しかし、それはまだ、かわいいことなのです。
展望台の飯店(ホテル)で使う水、食事、工事用の石や砂……。
これらすべて、天秤棒を担いだ人だのみです。
私は平地でそれを担いがせてもらいました。
いや、担げませんでした。田舎育ちで多少足腰に自信があったのです。 が、担いだとおもったとたん、天秤が揺れ、バランスが保てません。ましてや歩くことなど無理、さらに手ぶらでもフーフー言い、下手すると数百メートル下の谷川に落ちそうな狭い道、階段を行くことは、自殺ものです。
多分、何人かは亡くなっていたのではないでしょうか。
展望台でのビール。
正直、品質はイマイチだったはずです。
とにかく、瓶ビールが天秤で何万回も揺られていたわけですから。
が、私たちは、その展望台での一菜、コップ一杯の水、そしてビールに、日本では味わい得ない感慨をもっていただいたのです。
私は、ビールは生が好きです。
しかし、あの時を思い起こすと、贅沢は言えないなあ、と感じたりしています。
蛇足
著名な画家としては東山魁夷以来とのことなど諸々の理由で、私たちはあちらの国家議員と歓談したりしましたが、鞄持ちだった私に先生が「島ちゃんにはお世話になった」と、後日展覧会の招待状に印刷された絵(つまり、多分自信作)を下さいました。
文人画会員でもない私が、展覧会会場で、多くの会員が見ている中もらってしまいましたので、周りは唖然としておりました。
私が会員でもないのに同行できたのは、会員の故伯父(私の第2のオヤジ)によるものです。
その伯父にして羨ましかったらしく、「俺でさえ予約して、あれをうん十万で……」と言っていました。
昔はこんな風に、いろいろいいことがありましたが、なんかのきっかけで、すべてが逆回りすることもあるようです。
