
ギネスブックによれば、世界で一番コンスタントに売れている本は『聖書』なのだそうです。
私は40代後半、つまり、つい先日まで聖書なるものを読んだことがありませんでした。
いや、正確に言うと、今でもまだ読んでいません。
キリスト教の方、特に敬虔なクリスチャンの方には申し訳ない言い方、罰のあたる言い方かも知れませんが、聖書、特に新約聖書は、私には荷が重すぎる、というのが第一の理由です。
読んだこともないのに、なぜわかるって?
おっしゃる通りです。
私は食わず嫌いかも知れません。
ただ、犬養道子さんの『旧約聖書物語』は、今や愛読書の一つとなっています。
この本は、著者である犬養さんの意図とは裏腹になってしまうかも知れませんが、旧約聖書に抱いていた興味を一層増大させ、私に上っ面だけでもヘブライ語などの知識を得たい、から始まって挙げ句の果ては、イースター島のロンゴ・ロンゴという絵文字のようなものや、バチカンが公開を拒んでいると言われる『死海文書』にまで首を突っ込みたくなる私を作りました。
しかし一方で、新約聖書への興味は、かえって薄れて行きました。
そんな新約聖書の一つ、ヨハネ伝に、こんなことが書かれているそうです。
『元始(はじめ)に言葉があった』
あるいは、
『言葉は神であった』
あまりに意味深長であり、とても私には輪郭さえ掴めない言葉です。
ただ、犬養さんの懇切丁寧な説明で、多少は噛み砕けるところまでになってきた気がします。
(自信過剰かも知れません。また、飲み込めるかどうかというのは、別問題です)
日本語に『以心伝心』という言葉があります。
口に出さずとも、お互いの思いが伝わるといった意味でしょう。
しかし、その思いは『言葉』で考えているわけです。
お腹がすいた、助けて欲しい、嬉しい、悲しい……。
これらは、言葉に出さずとも、言葉という道具を使って感じているわけです。
だから、はじめに言葉があったのであり、言葉は神になるわけでしょう。
ただ、私たち人類はあまりに言葉を万能薬化し、利用しすぎて、疲弊させているかも知れません。
言葉で伝えられることは、たかが知れています。
その内容が正確に伝わるためには、お互いの環境や経験、体質、宗教、教育、年齢、性別、職業、時期、気候、食事……。
いろいろなものが関係してくるわけです。
自分の思いが伝わったと思っていたのに、全く正反対に解釈されていた、という場合もあるかも知れません。
こうした問題が生じた場合、神の力が絶大である場合には、神に助けを求めるという、ある意味では、単純な方法による解決の道が残されています。
ところが、私を含め大多数の日本人の中には、絶対無二の神は存在しません。
私に限らず、正月には初詣をしたり、おみくじを引いたりしておきながら、お盆には仏様に線香をあげ、クリスマスにはケーキやフライドチキンを食べてうかれることを、当たり前のこととして生活しています。
お分かりですよね。
日本には、嫉妬深い、執念深い神がいないのです。
逆の見方をすると、神は恐ろしいものではなく、仮に約束を破っも報復される心配がありません。
ですから日本で問題を解決する最後の決め手は『誠意』という、名前は素晴らしくとも、なんとも掴みどころのないものになってしまいます。
おそらく陪審員制度においても、守秘義務、判断基準の縛りとなるものは『誠意』であろうと思われます。(99%以上の確率で、陪審員制度関連の文書に、この言葉が入ります)
この『誠意』という言葉一つをとっても、百人百葉の考えがあるはずです。
ただ救いは、日本人は言葉が万能ではないことを知っていました。
それ故に、日本では契約社会が発展せず、いまだに外交では世界の三流国に成り下がってしまっている現実があります。
もちろん、主たる原因は他にあると思いますが、ダメ外交の後押しをしていることは確かでしょう。
言葉というものは、諸刃の剣。
万能ではありません。
が、それがないと、まだ今の人類には、思いの1割も伝えられないことも事実です。
遠い将来には、脳波波形やパルス、脳内生成物から感情をコンピュータが読み込み、これを相手に伝えるというテレパシーのような意志疎通ができるようになるでしょう。
しかし、そうなったところで、完全な感情の伝達は、人間が人間であるかぎりにおいて、不可能です。
それは、地球外の彗星由来のオスと、太陽を母体とした地球内由来のメスとが、永遠に一つの紐にはならないことにも似ています。
追記
今日はイースター(復活祭)。
キリスト教の方にとっては、大切な日のようです。