
男は、鼻をひくひくと動かしながらやってきた。
それを知られまいと、右手で鼻の頭を掻くような仕草をする。
何かおかしいことでもあったのだろうか。それとも、今しがたまで、三友亭園長の落語でも聞いていたのだろうか。
それは、笑い出すのを必死でこらえているように見えるであった。
「何になさいますか?」
男はいかつい体に似合わず、やや伏し目がちにかぼそい声を出した。
それはどこか、初恋をした17歳の乙女に通ずるような、むしろ微笑ましいものだった。
「何かおすすめはあるの?」
私は、いなかっぺ大将の親戚筋からクリスマスにもらった、膝まですっぽり隠れる長靴を履いた足を組み直して尋ねた。
この長靴は実に重宝する。とにかく、田んぼの草取りの時に、マムシに咬まれる心配をしなくてよいし、カヤツリ草などで、引っ掻きキズを作ることもない。
これが、最近若者にはやりのブーツというやつだろう。
ずいぶん派手な飾り付けがあるのがいささか気になるが、これが流行というものなのだろう。
それは今、いぶし銀の光を放ち、もんぺ半ズボンの下で私の風格に花を添えてくれている。
「グリーンカレーがありますが」
男は、目を伏せたままそう言うと、またひくつく鼻に手をやった。
「ほんじゃあ、それにすっぺ」
いけない。
生まれ故郷の言葉が出てしまった。
幸い、男はそれには気づかなかったようだ。
深くおじぎをして厨房の方に歩いていく。
その両肩が小刻みに震えている。
やっぱり、私が来る前まで、落語か漫才のビデオでも見ていたに違いない。
と、その左肩あたりに、薄手のシャツを通して何かの文字が見えた。
『ナンパじゃない』
と読めた。
どういう意味だろうか?
あるいは『ナンバじゃない』と書いてあったのだろうか。
確かに、ここは六甲の麓。難波というには、海からいささか離れている。
または、『ハンパじゃない』だったのだろうか。
いずれにせよ、私には意味不明な言葉ではあった。
しかし、幸せなものだ。
おそらく、あの男にも人に言えぬ悩みの二つ、三つはあるに相違ない。
しかし、ああやって落語、漫才を見ながらでも、毎日毎日を笑いながら仕事をしていられる。
幸せなことだ。
私は萱製の蓑をはおり直して、心底そう思った。
「おねーちゃーん。亀仙人みたい変な人いるよー」
外で子どもの声がした。
「本当のこと言っちゃいけません!」
店の入り口を掃除中の女が、笑いながら叱っている。
多分、外で大道芸人の曲芸でもやっているのだろう。
しかし、あの子にも困ったものだ。
掃除をさぼってホウキをまたいだりしている。
あと少し体裁を考えて欲しい。
せめて、私くらいの服装ができる、美意識が欲しいものである。