
春。
それは新しい年の始まりであると同時に、またひとつ年を重ねることだ。
春といえば、小学校の唱歌
春の小川はさらさらゆくよ
という歌詞で始まる歌は誰でも知っているだろう。
朝青龍なら、この歌の意味が分かるかも知れない。
いや、それは朝青龍の日本語がうまいからという話ではない。
実はこの歌を、古いモンゴル語で歌っても、同じような発音になるかも知れないからだ。
モンゴル語は日本語と語順が同じで、文法や言葉の作りが似るだけではない。
発音も大変似た言葉が多いように思われる。
例えば、上の歌で
春→ハヴァル
小川→オゲンまたはゴロガン?
さらさら→(朝鮮)サルサル
ゆく →(トルコ)ユリュ
よ→(朝鮮)文末
大変似ている。
『さらさら』のような擬音語、擬態語に関しては、朝鮮半島の言葉と日本語には、ほぼ同音で同義語がたくさんある。
また、文末の『よ』も、朝鮮語の末尾語あるいは満州語の末尾などによくみられる気がする。
ユリュ(トルコ語)は歩くと言う意味だが、トルコ語とモンゴル語は、親子または兄弟の関係だ。
だからおそらく、日本語を全く知れないモンゴル人が、同じ内容の歌を自国語で歌っても、かなり日本語の歌に近いような気がする。
ところで、春の歌といえば、
春のうららの隅田川……
という歌もよく知られている。
ここに出てくる『うらら』という言葉は、なんとも日本語らしい、なかなか外国の言葉に訳し辛いニュアンスを持つ言葉だ。
穏やかな光を思い浮かべる方が多いのではなかろうか。
ところがである。
この『ウラ』に似た言葉がアラム語(2000年くらい前まで使われていたシリア付近の公用語:イエスもアラム語を話していたらしい)にある。
その意味は『光』である。
『あの人にはオーラがある』などという使い方をされるオーラという言葉は、その子孫と言っていいだろう。
なお、春らしくなることを『春めく』などと言う。
これも、いかにも日本語固有の美しい響きある言葉だ。
が、ここで使われている『めく→メク→mek』は、トルコ語などでは動詞語尾にくる音で日本語の『る』に相当する。
古い日本語には『~になる』を意味する言葉の語尾に、『めく』を使うものが多くある。
こんなことを見つけてはニヤニヤし、タバコに火を点け、満足そうに紫煙をはく。
そんな時、「ああ私も年をとったなあ、こんなことに喜びを覚えるなんて」と、しみじみ思うのである。