ある女の生涯:八百比丘尼(やおびくに)の歌 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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私の実家の本家筋の遠縁に、旧黒羽藩・大関家がある。

黒羽藩は、江戸時代には松尾芭蕉が奥州への旅、つまり『奥の細道』の途中、不自然な長門逗留をした所だ。
随行の曾良(そら)も、その日記を書く際に、この不自然さを消すため相当苦労し、言葉を選びながら書いているのがよくわかる。 


数年前、私は当家の主(あるじ)立ち会いのもと、『お蔵さま』にある古文書を見せていただいた。 


芭蕉と親交の深かった浄法寺高勝(桃雪)らの俳諧談義に混じって、所々虫喰いされた黄褐色のざら紙が目に入る。 


なんとそこには、八百比丘尼の作の写しと思われる歌があったのである。 


八百比丘尼について知らない方のために、簡単に説明しておこう。 

彼女は西暦654年、若狭に生まれたという。

654年といえば、大化の改新(蘇我氏を中臣鎌子、中大兄皇子らが倒したとされる変:645年。ただし、最近は乙巳<いっし>の変と呼ばれることが多く、その変自体があったかどうかさえ疑問視する学者も増えている)の傷痕が、まだ鮮明に残っている時代だったろう。


若狭とは今の京都の北部、福井県である。しかし、当時はまだ都が転々とし、京都が都として定まっていない時代だから、若狭は日本海に面した僻地というイメージで、まず間違いない。 


彼女は16才の時、不老不死になる肉(イルカあるいはジュゴンの仲間?)を、父親の不注意から口にしてしまう。 


その後、親が亡くなり、子が亡くなっても、彼女は16才の姿のままだ。 
気味悪がられ、地元に住み辛くなった彼女は、全国行脚し、貧困にあえぐ農民たちを救ったという。 

亡くなったのは、800才の時というから、1454年くらいだろう。 
ということは、戦国時代のきっかけとなる、応仁の乱頃ということになる。 


さて、前置きはこれくらいにして、早速、比丘尼の歌を見てみよう。 


とはいえ、判読できたものは、下の二つだけである。



東風(こち)吹けど 子逝き孫逝き わが庵(いほ)は 古たうらうの 住める秋かな 


★筆者注★ 

春を告げるという東風が吹いている。しかし、子も孫にも先立たれてしまった私には、カマキリがあばら屋で、秋風に煽られているように感じられることでございます。 





ぬばたまの 黄泉(よみ)の国なる いざなみの 心しあらば われを連れゆけ


★筆者注★ 

暗闇の死の世界、黄泉の国を司るといわれるいざなみの命様。もし、あなたに憐れみの心というものがおありでしたならば、この私を子や孫の住む、あなたの世界に連れて行ってくださいまし。 




大関家を辞し、帰り道に湯津上神社にお参りしながら、こう思った。 



私たちは不老不死を願い、それが叶えば幸せと思いがちである。 

しかし、あまりにも長生きすると、こうした痛みも増えていくのだろうな、と。 





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いかがでしたでしょうか。
 
しま爺の小説は。 


本当の話と思って読んでくださった方、ありがとう。 
ちなみに、文章中の歌も爺作なので、時代にあわぬ言葉があっても、ごめんちゃいです。