ブログネタ:【新生活キャンペーン第一弾】出会いの季節★運命って信じる? 参加中イギリスにある程度いた方なら、スヌーカーという競技を知らない人は、まずいないだろう。
日本でいうビリヤードの仲間だが、イギリスにおけるそれは日本の比ではない。
とにかく大きな大会ともなれば、連日テレビ中継。日本なら、さしずめ甲子園か大相撲のような存在である。
さて、スヌーカーでは、初めに突いた玉の動きと色玉の位置、当たった後のそれぞれの玉の動きを計算して行う、技能ばかりかたいへん知能を使うゲームだ。
サッカーやゴルフがどちらかといえば技能勝負であるのに対して、このスヌーカーはチェスほどではないにしろ、知的ゲームの代表といったところだろう。
ところで、スヌーカーは、当たった玉がどんな風に動き、それがクッションして、さらにどういう進み方をするか計算しながら玉をつくゲームだ。
つまり、この玉突きには『突いた玉が当たった玉を動かし、さらにその玉も当てられた(与えられた)エネルギーを使って進む』という前提がある。
玉の動きは事前に計算することができる、というわけだ。
この考え方は、別にスヌーカーに限らず、私たちの生活ではごく当たり前に、意識することなく受け入れられている。
この考えを広げると、私のたちの体を含め、すべてのものは原子という粒(この表現は正しくないが、話を進める上でしばらくご容赦ください)でできている。
粒ならば、そのぶつかり合いは計算が可能、つまり予測することもできるし、また決まっている。
だから、原子の集合体ともいうべき人の体も、いや、世の中すべてのものが、ミクロ世界で決定しているならば、マクロ世界も決定しているはず。
つまり『運命は決定しているのだ』というのが、ニュートンに代表される、古典物理的な運命論だろう。
では、誰が最初に玉をついたのか?
西欧世界なら答えは決まっている。
『神』以外にあり得ない。
が、この運命論のベースともいうべき、ニュートン力学では説明ができないことが出てきた。
素粒子と呼ばれるものの寿命が、予測されるよりかなり長い場合があるのである。
また、原子が粒ではないこともわかってきた。
さらに、時速50キロメートルの車と時速50キロメートルの車がすれ違う時には、
50+50=100
の式から、相手のスピードは時速100キロメートルに見えるというのは、ほぼ正しいが、
秒速30万キロメートルの光と、やはり秒速30万キロメートルの光がすれ違う場合には、相手のスピードは、その合計秒速60万キロメートルではなく、秒速30万キロメートルであろうこともわかってきた。
(★注★ただし、これは現在人類が知っている物理学であり、将来変わる可能性がないわけではない)
つまり、
30+30=60
は誤りであり、
30+30=30
が正解にかなり近い場合が出てきたのである。
途中の理論は省略するが、これを発展させると、高速の乗り物(新幹線などのような『極めて遅い』ものは問題外)に乗る時間(これも、表現に問題があるかも知れない)が長いほど時間の進み具合が遅くなる。
実際、NASAでは精密な時計をスペースシャトルに載せ、地上にある時計との差異を計っているようだ。
こうなってくると、すべての物の動きが予測し得るという、ニュートン力学はお手上げである。
さらに最近では、不確定性原理により、物質の正確な状態はわからないことが証明されている。
この量子物理学という学問では『運命なんてフタを開けないとわからないよ、いや、フタを開けたところで見えているものは幻想さ』というようなことになる。
つまり、ニュートン力学を信じれば、運命は決まっているが、量子物理学を信じれば、運命など決まっているはずがない、ということになる。
私は、アインシュタインが最後まで首を縦にふらなかった、量子物理学の不確定性原理に軍配をあげたい。
あるブロガーさんもおっしゃっていらっしゃいましたが、宿命みたいものはあるかも知れません。
しかし、運命なんて決まっているはずはないでしょうな。
これは、キリスト教など一神教の方もわかるはずです。
もし、運命が決まっているものならば、神が人を試されることはあり得ないからです。
なぜなら、運命が決まっているならば、神がお決めになり、神造られた人を、都度試す必要などないはずだからです。
だいたい、運命が決まっていたら面白くないですわな。
ここまでお付き合いいただいた方、お疲れさまでした。
以前もちょっと書きましたが、エジプトや日本の神様やら古代語には、いささかうるさいしま爺ですが、実は私、理系のはしくれ。
こんな話も好きなんです。
まあ、今は着たきりスズメの掃除じっちゃまですから、どうでも良いことですがね。