
言葉とは『生き物』だ。
だから、成長もすれば老化もする。
恐竜のように絶滅もすれば、その恐竜から進化してスズメやハトに進化したりもする。
少し前に『ら抜き言葉』が問題になった。
『来れる』『食べれる』といった類の言葉だ。
個人的にはいまひとつスッキリしないが、これも言葉が生き物であり、刻々と変化するものである以上仕方がない。
また、芸能界などで使われる短縮語、逆転語もいたしかたあるまい。
最近、全く逆の使い方と言っても過言ではない『全然』や『ヤバイ』にしても、私は変な日本語だなあ、とは思うものの、まあ、目をつぶるしかないだろう。
そんな、結構言葉にはうるさいものの、かなり寛容だと自分では思っている私だが、どうも腑に落ちないことがある。
それは、別の記事でさらり述べたことがあるが、意味不明、いや、確かに意味はあるのだが、相手に優しくないカタカナ文字羅列だ。
特に、高齢者たちを対象にした公共物に、カタカナ言葉を並べ立てるのは、愚の骨頂である。
ひょっとしたら、その表現の承認印を押した責任者さえ理解していないのではないか、下請けに任せきりで、そこで本当にアイデアを生んだ若者が、高齢者のカタカナ言葉理解力を把握せずに表現している点の校正がなされていないのではないか、あるいは、その能力がないのではないか。
そんな風に取られても仕方ない表現に出くわすことがある。
まさか、カタカナ言葉がかっこいいとか、カタカナ言葉の意味を聞くと『そんなことも知らないのか』どバカにされることが怖くて、『なんか解り辛いなあ』と思っても、したり顔するような小学校低学年レベルの笑い話のようなことがないことを信じたい。
このような、高齢者向け公共広告に代表される、国民へ向けての、あるいは不特定多数へ向けてのカタカナ文字羅列、言葉明瞭意味不明のものにはあきれかえりますな。
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コンピュータ説明書や携帯電話説明書などの場合は、やむを得ない点はありますね。
しかし、対象がある程度設定できる場合には、対象に応じた表現を考えて欲しいものです。
なお、ちょっと嫌みを言わせていただければ「これ、英語ですよ。知らないんですか」とか言う方。
あと少し英語を勉強して欲しいですな。
カタカナ言葉は、日本語です。
『カタカナ言葉なら英語圏でも通用する』
なんていうどうしようもない、あまりに痛い、可哀想になるほどの、基本的なところでの誤解はしていませんよね。