縄文土器 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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私の生まれた真岡市の東はずれに、根本山という、せいぜい標高100メートル程の山がある。 

先に紹介した、皆川マスの生家がある西田井という集落の隣にある山だ。 
しかし、その辺の標高がすでに60メートルくらいあるから、実際は山というよりは丘に近い。ただ、根本山は、小貝川によって八溝山地から切り離されていて、この山の頂上からは360度の視界が開ける。 

この山頂へは、麓にある能仁寺から何百段かの石段が続いている。 
中学校時代、私はバスケット部に入っていたが、新入生時代に、この階段でしごかれたものだ。 


この能仁寺は、室町幕府を開いた足利尊氏の創立で、かつては七堂伽藍をもつ円覚寺派10刹の一つにも列した古刹である。 しかし、相次ぐ火災などで、現在は、梵鐘がわずかに栄華の面影を残すだけである。 

私がまだ小学校に入る前、私は母や近所のおばさんたちとともに、この山に登ったことがある。 

家から車でなら10分もかからぬこの山までの道は、幼い私にとっては、ひどく長い道のりの旅だった。 

鯉のぼりが空を泳ぎ、ツツジが満開だったから、おそらく今で言うゴールデンウィークあたりのことだったろう。 


途中のレンゲ畑で休んだり、ひどくゆっくりと石段を登る母たちを振り返ることなく、一気に頂上までかけ登った気がする。 


この根本山と磯山という山は、私には大変思い出深い山だ。 


中学生の時には、この山にある施設で先生たちと合宿したり、能仁寺で座禅をくまされたりした。 


その時和尚さんは『ひとつ、ひとつ』と唱えながら無心になれ、とおっしゃっていた。当時は『ひとつ』などと唱えたなら、それは頭を使うことだから無心にはなれないんではないだろうか?と思ったものである。 

おそらく和尚の言いたかったことは、常人は無心、無我の境地に入るのは難しいから、せめて『ひとつ、ひとつ』と数えることにより雑念を捨てよ、ということだったのだろう。 


ところで、この能仁寺から西へ数百メートル程のところ、根本山の山裾が終わるところに、ラクダの瘤のような盛り上がった場所があった。 


ここを少し掘れば、縄文土器や貝殻がわさわさと出てきて、私たち子どもの探検場所であった。 

今思うと、あの盛り上がりは円墳か方墳であったに、まず間違いない。 


すぐ近くの田んぼの中からは、友人がほぼ完全な弥生式土器も見つけている。 

かつて、関東平野の奥深くまで海が広がっていた頃、この根本山あたりは、海に面したところだったのだろう。 


やはり、真岡市南東部にある磯山という名称が、それを物語っている。 



磯山にも、いろいろな思い出があり、また、歴史的には根本山以上に面白いところだが、その話は、また、別の機会に。 






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明日、また、田舎に行ってきます。 
ちょっと早起きしようかな、と思っておりますので、今日のところは、この辺で。 

          では。