
若い頃は、多くの方がそうであるように“全く違う”あるいは“全く違ってやる”と思っていましたなあ。
30の声を聞く頃、自分の中に、母親の見方が生まれていたことに気づき愕然としたり、はるかに遠い存在の聖人の域にいる父親に、どうでもいいような世間話ができるようになったり、まあ、知らず知らずのうちに、どうも似てきてしまっているようです。
ただ、私にはとても両親に到達できないところがあります。
しかし、別にその域に達しようとは思っていません。
だいたい、世の中の垢をずいぶん飲みましたし、バカもみました。とてもなれるものではないでしょうね。
まあ、その辺のことを分かっていて、私が家を出て会社員となることに反対したんでしょうなあ。
父親が私をたしなめたのは、片手にあまります。
母親には、ずいぶん細かいと思われることで泣かれましたが、今思えば、たいへん大きなことであり、世の中には顕微鏡で見ても探すのに苦労するようなことでもビシッ、バシッがあることを知りましたわい。
とにかく、幸か不幸か、少しずつ似てきているようですな。
蛇足ですが、私には生みの親以外に、私が勝手に決めた“オヤジ”がいます。
そんな存在があることは、素晴らしいことと思いますし、また、幸運なことです。
最近、勝手に“おふくろ”(いや、“姉上”くらいかな)にしたい方もいらっしゃいますが、こちらの方は本物の雲上人なので、畏れ多いですから、眺めるだけにしておきますか。
(古代語で“女神”あるいは国際的には“真珠”と呼ばれているお方へ:万が一、億が一、この記事を読まれていらっしゃいましたなら、失礼な表現、私の思い、お笑いくだされば幸いに存じます)