「そろそろ、じゃない?」
ケブちゃんが遠慮がちに私を見た。
8時をちょっと過ぎたあたりだ。
12月初旬、いよいよフランス初出張の日が来た。
私は、ほぼ同期のケブちゃん、ヨッシーと共にフナさんのマンションへ招かれていた。
私の壮行会を兼ねた、フナさん流の若者慰労会だ。
フナさんのマンションからシンガポール・チャンギ空港までは、のんびり走っても1時間。出発は深夜11時だから十分時間がある。それに、時間ぎりぎりで搭乗すると、場合によってはビジネス席でも、ファーストクラスに替えてくれることもある。
私は皮算用をしながら、美味い酒を楽しんでいた。酒の不得手なケブちゃんは、わが事のように時計を気にしながら、ウーロン茶を飲んでいる。普段は豪快に笑って現地人と馬鹿話をしているが、こういう時にはひどく敏感になる。空港まで送るという使命感からだけではなく、ケブちゃんにはそうした繊細なところがある。普段の豪快な笑いは、繊細なるが故に、周りを気遣い、多少のピンチもどこ吹く風を装っているだけである。
駐在当初、彼の住むアパートの一室に、1ヶ月ほど間借りしていたことがある。会社では笑い顔をたやさない彼が、家に帰ってからはげっそりとし、飲めぬビールを一人部屋で飲み、しばらくしてトイレから、獣のうなりに似た音が聞こえてきたことがある。旧式クーラーのがなりたてる音に掻き消され、はっきりとは聞こえなかったが。
「なあ、そろそろ」
また、ケブちゃんが時計を見て、私を覗きこんだ。
9時だ。
「じゃあ、そろそろ行きますか」
私は、あと30分は十分飲んでいられると思ったが、ケブちゃんの不安と、フナさんのまだ小さい下の子のことを考え、重い腰を上げた。
ガードマンが何人も立ち、駐車場入り口にもいかめしい武装警備員が守る高級マンションを出る。
夜になっても30度を越す熱風が、一気に頭の先から爪先に流れ込み、先ほどまでカーディガンを羽織っていたからだが、融けた飴になっていく。
「それじゃ、お願いします」
私は、多少かしこまってケブちゃんに頭を下げた。
「ちょっと飛ばしまっせ」
ケブちゃんはそういうと、社用車のプレジデントにキーを差し込んだ。
かすかなエンジン音とともに、また、涼しさが戻ってきた。
つづく