昨夜は、あるお方のお通夜でした。
私が新卒で入社した時、専務をなされていた方で、おそらく大多数の方が知っているであろう、現在一部上場企業の副社長まで務められた方です。
私は直接には、この方と知遇はありません。
ただ、私が自分勝手に第三のオヤジと決めこんでいる元会社の上司の方と同じくらい、ずっと尊敬している方でした。
昨年夏、私の本を読んでいただきたく、あるお方を通して、その方に本をお贈りしました。
と、なんと週をあけずに拙著に対する感想と激励が、あのお方らしいでっかいペン字で便箋数枚に綴られ、師匠(引退後は、俳句の師匠をしていた)の句集とともに送られてきました。
ああ、やっぱり大物は違うなあ、と改めて感激したのを覚えています。
私もすぐに句集の感想など、お礼かたがた送りますと、それにも返事を返され、今や師匠とは仕事でも、もちろん生活でも何ら関係のない、たかが路地裏のハキダメグサに、かような心遣いをできる師の大きさを知らされたのでした。
通夜の帰りに聞いたのですが、もうその頃には、不治の病であり、余命いくばくもないことを知らされていたようです。
師は手術をして延命するのではなく、静かに家族との短い時間を過ごす道を選びました。
また、これは師のダンディズムの最期の仕上げだったのでしょう。
家族以外は、どんなに親しくしていた句会仲間、仕事仲間とも会うことをお断りしていたようです。
改めて、師の句集を開いて見ますと、あとがきにこんな文があります。
「わが愛する家族にもひとこと伝えておきます。この本は遺すものとてあまり無い夫、おやじの遺言代わりと思ってください。気の向いた時に一読してくれればとても嬉しく思います。君たちのために、普通は俳句につけない振り仮名を多めにつけておきました」
岩船ひろし著:ひろし百八句集(梅里書房)
子ども、孫たちのために、振り仮名にまで配慮する心遣い。
この一節は、涙腺の締まりが悪くなった者には、これを打ち込む際にも、視界が霞みます。
とても、素晴らしい人でした。
また一人、私の師匠があちらへ行かれてしまいました。
合掌